15代260年に及ぶ太平を現出した江戸時代について、徳川家康がその基礎を築き、三代目の家光がその体制を固めたというのが、教科書に学ぶ常識的な歴史である。
ぽっかりと抜け落ちている二代目の秀忠とはどういう人物だったのかを調べてみると、創業者の事業を引き継ぎ、安定的に発展させるためには何が必要なのかが見えてくる。
秀忠は家康の三男である。長男の信康は武勇、知略ともに秀でていたが、信長によって自害させられた。
家康の後継者は、秀忠ら残る四人の男子から選ばざるを得なかった。
天下分け目の関ヶ原合戦の前夜、家康は会津攻めのため関東に下っていた。そこに石田三成挙兵の知らせが届く。
家康は自ら旗本三万の兵を率いて東海道を進むことにし、秀忠に譜代の主力軍三万八千を託し、東山道を信濃経由で上方に向かうように指示した。
この時、次男の秀康が、「先陣を務めさせていただきたい」と志願したが、家康は却下し関東に留まるように命じている。
秀康は勇猛で知られていたが、秀吉の養子となり、のちに結城家を継いでいる。
嫡男の秀忠に初陣の武功を上げさせ、後継者の地位を固めようとの家康の配慮がある。
しかし、秀忠は大失策をおかす。西上の途中で、三成方の真田昌幸、幸村親子が籠る上田城の攻略にこだわって進軍が遅れ、関ヶ原に間に合わなかったのだ。
家康から秀忠の参謀役を命じられた本多正信は、秀忠を現地で叱り進軍を急がせている。
「若殿様は、若さゆえに無茶をするだろうと、父上は私を参謀につけたのです。上田城攻めは時間がかかります。それでは本軍への合流に間に合いません」
しかし自負心を傷つけられた秀忠は従わなかった。
主力軍を欠いたまま、きわどい戦いを強いられた家康は激怒し、合戦後に遅れて到着した秀忠の対面も許さなかった。
秀忠の不始末は徳川の家臣団に動揺をもたらした。家康は重臣五人を集めて、後継者の選定を諮る。
「言いたいことを述べてみよ」とはいうものの、家康の本心が、唯一関ヶ原で武功のあった四男の忠吉にあることは明らかだった。
三人は忠吉を推した。本多正信は、秀忠の失態を間近に見ていただけに、「武勇に優れた次男の秀康様こそ適任でしょう」と進言した。秀忠の軍才を見限ったのだ。
秀忠失格は避けがたく思われた。(この項、次週に続く)