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第73回 田沢温泉(長野県) 1時間入っていられる!癒やしのぬる湯

高橋一喜の『これぞ!"本物の温泉"』

■石畳の坂道の先にあるのは……

 宿や土産物屋が立ち並ぶ賑やかな温泉街もいいが、鄙びた雰囲気の小さな温泉街も魅力的だ。日頃、ストレスフルな会社経営に携わっている経営幹部こそ、やすらぎと静寂の中で過ごす時間が必要ではないだろうか。 
 長野県に湯けむりを上げる田沢温泉は、リラックスできる環境を求める人にはおすすめの温泉地だ。十観山の東側に位置する静かな温泉地で、近くには人気温泉地・別所温泉がある。多くの湯浴み客は別所温泉に滞在するが、温泉の質を重視する人は、田沢温泉まで足を延ばす。
 「信州の鎌倉」と称され、多くの旅館が立ち並ぶ別所温泉とは対照的に、田沢温泉はこぢんまりとした温泉街である。車が1台やっと通れる石畳の坂道に沿って、風情たっぷりの温泉宿が数軒並んでいる。
 開湯は、飛鳥時代とも奈良時代ともいわれる。昔ながらの湯治場の雰囲気を残す温泉街に足を踏み入れると、「あぁ、温泉にやって来たな」とたちまち旅情をそそられる。温泉街らしい景観や環境を大事にしているという印象を受ける。やはり、温泉街はこうでなくては。
 温泉街でひときわ目を引くのは、歴史を感じさせる木造の宿「ますや旅館」。凛とした風格が漂う純和風旅館だ。かつて島崎藤村が逗留した宿で、松坂慶子主演の映画『卓球温泉』(1998年)の舞台にもなった。寂れた温泉街を卓球のイベントで復興しようと奮闘するコメディ映画で、当時、卓球ブームを巻き起こした。

■金太郎ゆかりの「子宝の湯」

 ますや旅館からさらに坂道をのぼっていくと、共同浴場が姿をあらわす。「有乳湯(うちゆ)」である。

 有乳湯という名前はユニークだが、この地で山姥が坂田金時(金太郎)を生んだという伝説に由来するようだ。「子宝の湯」とも「母乳の出がよくなる」ともいわれる。とくに、女性に効能のある温泉だといえそうだ。
 シンボル然とした木造の湯小屋は、2000年に建て替えられたが、今も威風堂々とした佇まいは健在だ。男女別の浴室には、10人ほどが浸かれるタイル張りの内湯がひとつ。シンプルな浴室である。
 地元の常連さんが、すでに6~7人入浴しており、世間話に花が咲いていた。みなさん、いい顔をして湯に浸かっている。常連さんの幸せそうな顔を見ただけで、この湯のすばらしさがわかる。
 湯船からは、透明湯が激しくあふれ出し、甘い硫化水素の香りが浴室に充満している。約40℃のぬるめの湯は単純硫黄泉。少しぬるめの湯だが、加温することなく、そのまま利用しており、長時間入浴する人が多い。 
 ぬるい湯をそのままいただく。実は、全国的に見れば、このような湯船は意外と少ない。湯がぬるいと入浴客からクレームが入ることもあるため、加温してしまう入浴施設が少なくないからだ。だが加温すると、湯の鮮度が落ちてしまう。加温していない湯と加温した湯とでは、入浴したときの心地よさが全然違うのだ。

■まるでジュンサイのような入浴感

 やさしい湯に抱かれてボーッとしていると、あっという間に炭酸ガスの小さな気泡が体中に付着しはじめる。気泡の付いた肌をこすると、スベスベヌルヌル。まるでジュンサイのような感覚、というのは少し大げさだろうか。気泡が体に付着したまま立ち上がると、シュワーッと一気に気泡が肌の上ではじける。その瞬間の清涼感も楽しい。
 45分ほど浸かっただろうか。そろそろ上がろうと思っていたら、隣で浸かっていたおじいさんに「いい湯でしょう?」と話しかけられた。
 「このあたりで一番ですね」と答えると、「私は10年以上通っているが、おかげで風邪ひとつ引かない」と誇らしげに語り、「お兄さん、この温泉のよさがわかるなんてツウだね」とお褒めの言葉。それから10分以上、温泉談義に花が咲くこととなった。地元の人との交流も、小さな温泉地の共同浴場ならではの楽しみである。

 

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