大航海時代
ホモ・サピエンス(人類)という生き物は元来、見知らぬものへの限りない憧れを持つ生き物だ。500万年前にアフリカで誕生して、新天地を求めて世界中に拡散した。放浪拡散の旅をグレート・ジャーニーという。他にこんな動物はいない。それを突き動かしたものは、あくなき好奇心だ。
15世紀から、16世紀にかけて、欧州の西のはずれのイベリア半島の二つの国、ポルトガルとスペインの王室は、地中海世界を飛び出して外洋への航海に船団を送り出した。大航海時代だ。
外洋の荒波に耐える大型帆船の造船技術の発展もそれを支えたが、それまで欧州内に留まっていた彼らが堰を切って大洋に飛び出したのは、なぜか。未知の世界との交易に大きな関心が向けられた時代背景がある。そして東西の文化が出会い、世界規模の交易が進むこととなる。
香料を求めて
イベリア半島の両国が海の向こうに求めたのは、コショウやナツメグ、シナモンなどの香料だった。インドネシアのモルッカ諸島で豊富に採れる香料は、食肉の防腐や調味に欠かせないものとしてそれまでもヨーロッパでは珍重されていたが、中国、インド、アラビア商人の手によって陸の交易路を通ってはるばる運ばれていた。
経由地域の政治情勢によってその供給は不安定だった。現在の石油のようなものである。しかもコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)を拠点とする地中海交易ルートは、東に立ちはだかるオスマン帝国に支配され、オスマン帝国との交易は、イタリアのベネツィアが独占している。憧れの的だった香料価格は、「ナツメグ1グラムは、金1グラム」と言われるほど高価だった。
「それならば直接交易のルートを」とまず乗り出したのが、ポルトガルの王室と商人たちだった。対岸のアフリカの西海岸を徐々に南下して、最南端の希望峰まわりでインド洋に出るルートを開拓した。しかし目指すモルッカへの道のりはまだ遠かった。
マゼランの逆転の発想
ポルトガル海軍の航海士としてアフリカ(東まわり)ルートの開拓に8年間従事したフェルディナンド・マゼランは、モルッカへの航路の目処をつけるためポルトガル王室に香料ルート探検行の計画を持ちかけたが断られる。そこでマゼランは、1517年、隣国のスペインの国王カルロス1世に掛け合う。香料ルートの開拓でポルトガルに遅れをとっていたカルロス1世はマゼランに新航路開拓を命じた。
スペインは、大西洋を横断し、西回りでアジアに到達することを目指していた。1492年には、コロンブスがカリブ海の西インド諸島に到達している。しかし、そこで行き止まりに思われた。
マゼランは、西回りルートでアジア大陸(実は南アメリカ)の南端を抜けモルッカ諸島にたどり着くルートが必ずあると国王を説得し、1519年8月10日、5隻の艦隊を率いてセビリアを出発した。
当時、南北アメリカがアジアだと認識されていたから、その先にモルッカにたどり着く海路があるのかの確信はない。しかし、マゼランは、南アメリカの東岸を南下し、ついに南端(マゼラン海峡)を回り込んで、未知の大洋(太平洋)に出る。そこから手探りの航海となったが、飢餓の末にグアムを経て、フィリピンに辿り着いた。
マゼランは、現地で部族間の紛争に巻き込まれ命を落とすが、残された船一隻が苦難の末に出発から三年後、インド洋から希望峰をまわってセビリアに戻り、世界初の世界一周が成し遂げられた。
目標だった香料諸島(モルッカ)にはたどりつかなかったが、マゼランの執念は、現在の世界地図を生んだ。
世界規模の交易と、ヨーロッパによるアジア植民地支配の新しい世紀は、偉大なる好奇心と実行力によって幕を開けることになった。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『マゼラン船団世界一周500年目の真実』大野拓司著 作品社