■動物による温泉発見伝説
温泉の発見伝説には、動物がかかわっていることが多い。鳥獣たちが湧き出す温泉に浸かって傷などを癒すのを見て、人間も利用するようになったという類の言い伝えである。古い歴史のある温泉地ほど、動物の発見伝説が残っている。
たとえば、道後温泉(愛媛県)や下呂温泉(岐阜県)は白鷺、鹿教湯(かけゆ)温泉(長野県)や那須湯本温泉(栃木県)は鹿、湯河原温泉(神奈川県)はタヌキ、野沢温泉(長野県)は熊によって発見されたといわれる。
この手の話はあくまでも伝説の域を出ないが、実際に温泉が好きな動物は少なくないように思える。長野県の地獄谷温泉ではニホンザルと混浴をした経験がある。青森県の薬研温泉ではヘビが湯船の中を泳ぎまわっていて他の入浴客と一緒に大騒ぎをした思い出もある。
山の中の温泉などでは、人間がいない間に、温泉好きの動物たちが入れ替わり立ち替わり入浴しているのではないか、と想像すると愉快な気持ちになる。
しかし、けっして山の中で出会いたくない動物がいる。熊だ。人里離れた山中に湧く野湯などを散策する際には、熊と出会う可能性が少なからずある。とくに北海道では、ヒグマと遭遇するリスクが高い。
北海道の登別に湧く野湯「川又温泉」を訪ねたときも、野生の熊の影におびえながら山道を進んだ。
■道中、4度の渡渉
まずは、デコボコ道が続く3.5キロのオフロードを車で入っていく。車がすれ違うのも困難な細道。小さな穴がたくさんある荒れた道で、何度も車の底をこすってしまう。3キロほど走ると、ゆるい登り坂にさしかかった。さらにデコボコの激しい砂利道となり、タイヤが空転しはじめる。これ以上、車で進むのは危険と判断し、車を捨てて徒歩に切り替えた。
それにしても、野生の熊がいつあらわれてもおかしくない雰囲気だ。「ヒグマに注意」という看板が何度も出てくるので、いやでも熊の存在を意識してしまう。
山に入るときは、クマ除けの鈴をつけたり、ラジオをかけたり、爆竹を鳴らしたりして、人間の存在を知らせる必要がある。本来、熊も臆病な生き物なので、できるだけ人間と出会いたくないと思っているのだ。
しばらく進むと、獣道のような細道に突入する。こんなところで道に迷ったら……と思うと恐ろしくなる。小さな道しるべや目印として付けられたピンク色のテープを頼りにぐんぐん奥へと歩いていく。
道中には4度、川を渡らなければならない地点もある。靴を脱ぎ、横断用に張られたロープにつかまりながら向こう岸に渡る。真夏だというのに、山の水は肌をさすような冷たさだ。ちょっとしたサバイバル体験をしながら歩くこと15分、森の中に木造の脱衣所が姿を現す。目的地の「川又温泉」である。
■湧き出す湯で体が持ち上がる……
温泉といっても当然、洗い場などの設備はなく、森の中にたたみ一畳ほどの木枠の湯船がポツンとあるだけだ。
こうした野湯は常に自然にさらされているので、泥がたまったり、藻類が繁殖したりと、清潔感がいまひとつであることが多いが、川又温泉は地元の人によって管理されていることもあり、とてもキレイである。
ピュアな透明湯が湯底から大量に湧き出しているのも、湯船の清潔感が保たれている要因だろう。ポコポコと湧き出した湯が、大量に湯船からあふれ、そのまま川に流れていく。常に湯船の中の湯は、新鮮な状態に保たれているわけだ。
硫黄の香りを放つ湯は、34℃のぬる湯。暑い季節にはぴったりの湯加減だ。湯底から勢いよく湧き出しているので、体が持ち上げられるような不思議な感覚を体験できる。聞こえてくるのは、川のせせらぎと鳥のさえずりだけ。
あまりの気持ちよさに、夢心地で30分ほどボーっとしていると、木がガサガサと揺れる音が聞こえた。まさか、ヒグマかっ! 勢いよく立ちあがり、とっさに逃げる態勢をとった。しかし、姿を現したのは、ヒゲを生やした、熊のような体格をしたおじさんだった。