1940年5月、ナチス・ドイツ軍の電撃的な独仏国境突破でフランスは降伏し、英国は孤独な本土防衛戦を強いられることになる。
英首相チャーチルは、国民を激励しつつ大きな戦略図を描いていた。
「独ソ不可侵条約は永続しない」という冷静な目と、「大陸への上陸反攻には米国の参戦が不可欠だ」という世界地図を見据えた大局観に基づく。
チャーチルは若き日に、騎兵将校として赴任したインドで、寝る間を惜しみギボンの『ローマ帝国衰亡史』などの歴史書、哲学書を読みふけったという。
さらに、19世紀初頭の欧州を覆ったナポレオン戦争の教訓を踏まえ、「いかに強大な軍をもってしても、戦線を過大に拡大すれば国は滅びる」「敵と味方は固定的なものではない」という歴史に裏付けられた事実を信念として学びとっていた。
歴史に学ぶ重要さとはそういうことである。教養としての読書ではない。
先に触れた、「ブリテンの戦い」の決意を表明した演説はこう結ばれている。
「神のご都合の良い時に、新大陸がその力をもって旧大陸の救出と解放に乗り出してくる時まで」。戦争に巻き込まれることをためらう「新大陸」米国の参戦を見据え、促している。
一方のヒットラーも、欧州大陸を席巻し、英国をブリテン島に押し込んだ大戦初期のこの段階で、「英国が勝てるのは、米ソが参戦した場合だけである」と周辺に語っている。
情勢を読み取る「勘」はあったが、背反する行動をヒットラーは取る。
空爆に耐える英国への上陸をあきらめた彼は反転して“同盟国”のソ連に攻め込む。
さらに1941年12月に日本が真珠湾奇襲に成功するや米国に宣戦布告し、「欧州の戦争」から距離を置く米国を自ら戦場に引き込むことになる。
チャーチルは、第一次世界大戦の経験から陸軍同士の正面戦はただただ無駄に膨大な犠牲を生む消耗戦に陥ることを熟知していた。
英国軍のフランス上陸による第二戦線構築をせっつくソ連のスターリンに対して、欧州を占拠したドイツを巨大なワニにたとえて説得した。
その口が牙をむくフランスへの上陸を避け、「柔らかな腹部を攻撃する」の基本戦略を示し、北アフリカに兵を送り、地中海の制海権を掌握する迂回作戦に全力を注ぐ。
そして、兵の消耗を防ぎながら、来るべきノルマンディー上陸の「Dデイ」に向けて戦備を整えることを忘れなかった。 (この項、次週に続く)