田中角栄というと、政権発足にあたって掲げた「日本列島改造論」ばかりがクローズアップされ、内政の人、あるいは不動産を手玉にとった“錬金術師”という負のイメージがまとわりついている。
政権末期には金権政治批判が巻き起こった。首相を退いたあと、ロッキード社から民間航空機の導入をめぐり多額の賄賂を受け取ったとして逮捕、起訴され有罪判決を受けている。
こうした負の側面はもちろん無視するわけにいかないが、本稿で取り上げるのは彼が外交場面で発揮した指導力についてである。
先に触れた日米繊維交渉でも、今論じている日中国交正常化でも、また、旧ソ連との間での平和条約交渉でも、彼が見せたのは、固定観念にとらわれず広く視野をとっての利害の判断力である。しかも即断即決。
政治のみならず調整型のリーダーが重視される日本社会の中で、田中のリーダー・シップこそ、グローバル・スタンダードである。そのゆえに「なじまぬ」として、彼は既得権層から斥けられてゆく。
外交において最大の価値基準は国益だ。理想と現実の間でときには中央突破し、また果敢に妥協してでも国益の最大限確保が求められる。企業において、筋論を通すばかりで社益を損なっては元も子もないのと同じである。
ただ政権を長期維持するだけなら、党内、国内に反対が強い日中問題は、時間をかけて先送りすればいい。敗戦後、日本の外交に染み付いたクセ、同盟国の米国の動きを見ながら後を追えば済む。安全運転でよい。
だが田中は決断した。「国益にかなう」と。
1972年(昭和47年)7月7日の初閣議後、田中はきっぱりと表明する。「中華人民共和国との国交を急ぎ、激動する世界情勢のなかにあって、平和外交を強力に推進してゆく」
首相官邸周辺、私邸のまわりには右翼の街宣車が押しかけ、「田中を殺す」と叫ぶ。文字通り、決死の覚悟だった。
台湾の取扱い、日米安保問題と課題は多い。
「なぁに、膝を交えれば話は通じる」。とりわけ、かつて西安事件で政敵・蒋介石の救出にあたって見事な交渉術を発揮した周恩来に対して自分と同じ現実政治家の姿を見ていた。
東西冷戦の枠組みから大きく踏み出そうとする中国指導部の覚悟の外交舵取りについて、「おれと同じで、理想と現実の間で決断する腹をもっている」という信頼感をもっていた。
田中の初閣議後の宣言から二日後。周恩来は人民大会堂で行われたイエメン大統領との夕食会で演説した。
「長く中国を敵視してきた佐藤政権がついに退陣した。田中内閣が日中国交正常化の実現推進を発表したことは、歓迎に値する」