五箇条の御誓文
明治新政府は発足まもない1868年(明治元年)3月14日、京都御所の正殿である紫宸殿で、明治天皇が天神地祇に誓うという大時代的な儀式を開いて新政府の基本方針を「五箇条の御誓文」として発布した。
第一条に、「広く会議を興(おこ)し、万機公論に決すべし」(広く会議を開いて、すべてのことをみんなで話し合って決めるべきである)とうたった。以下、(二条)上下心を一つにして精力的に仕事を進める、(三条)官僚から武官、庶民に至るまで不満を抱かないようにする、(四条)古い習慣を捨て、普遍的な道理に基づいて行動する、(五条)世界から知識を集め国の発展を目指す。
前段の三か条は国内向けに「御一新」を印象付け、後段の二つは、まわりくどい表現ながら、討幕派がこだわってきた「攘夷」を放棄し開国に動くという外国向けの宣言だ。
第一条の真意
問題は、第一条に込められた真意だ。後の帝国議会開設の下地になったとの評価もあるが、それは深読みに過ぎる。御誓文の条文を整理したのは、長州藩出身で維新に動いた木戸孝允(きど・たかよし)だが、原案に「広く列侯会議を開き」とあったのを、「それでは、天皇親政の原則を損ねる」として、一般論に修正したのだった。
寄り合い所帯でなんとか発足した明治新政府だったから、ヘゲモニーを握った勢力が独裁的に政策を決定するのを牽制するために「広く会議を興し」(合議制で進める)程度の意味だった。広く民意を吸い上げるという発想はなかった。
現に、政府要人が大挙して米欧歴訪の外遊に出た明治4年からの岩倉視察団では、木戸も大久保利通(おおくぼ・としみち)も、各国の経済発展ぶりに驚嘆し、「富国強兵」「殖産興業」を誓ったものの、どの国でも議会を視察、研究した形跡はない。木戸も大久保も英米などの高度の民主主義体制よりも、ツアー専制政体のロシア、ビスマルクが強権で政府を率いるプロシアにこそ日本の未来の手本があると感じ取った。
明治政府はまだ若かった。民衆の声を汲み取る余裕などなかった。
自由民権運動
余裕がないと、「万機公論に決する」のは面倒だ。いちいち、議論している暇はない。議論に手間取り決断が遅れては元も子もない。会社組織でも、優秀なトップがいて素早い判断があればいいと考える。会議を開いても、誰も本音で口を挟まなくなる。そんな組織は凋落する。会議の議論は無駄ではない。トップが気づかなかった意見を吸い上げる場ともなる。誤りを修正する機会ともなろう。余裕があればこそだが。
明治新政府の財政は破綻状態だった。余裕がない中で、俸禄を失った士族の収入を政府が立て替えていることも負担になった。政府がその支給を打ち切ったことで士族の不満は高まる(秩禄処分=明治9年)。また農民も、地租改正(同6年)で金納となった納税負担に苦しみ、各地で一揆が起きる。
この不穏な情勢に動いたのが、前回触れた明治6年の政変で下野した土佐出身の板垣退助(いたがき・たいすけ)だった。五箇条の御誓文一条の「広く会議を興し万機公論に決すべし」とあるのを盾に、民衆の声を聞けと、国民の代表による帝国議会設立を求め、自由民権運動を発動する。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
(参考資料)
『日本の近代2』坂本多加雄著 中公文庫
『日本の歴史 20 明治維新』井上清著 中公文庫