日中国交正常化交渉の二日目に対立が表面化した日華平和条約の取
日本は敗戦後の1952年(昭和27年)
だが、当時、国民政府は国共内戦に敗れて台湾に逃亡していた。「
言い換えれば、「
それはメンツだけの問題ではない。「
そこに切り込んできた周恩来の剣幕に、
「なんだ、お通夜みたいだな」と首相の田中角栄は、
「心配しても仕様がないじゃないか。また明日やりゃいい。
大平が顔を上げた。「じゃ、どうすりゃいいんだ」
「大学を出たやつが考えるんだよ」
協議の細部は任せたといった以上、任せる。田中流だ。
大将の軽口に座が和み食事がはじまった。
「オレは越後の雪の中じゃ飯が食えんからな、
「ぼくもそうだ。
「それなら、当たって砕けても、もともとじゃないか。
責任は取ってやる、と言われれば兵卒は動き出す。“官僚たらし”
外務官僚たちの智恵出しコンピュータのスイッチが入った。 (この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
参考文献
『早坂茂三の「田中角栄」回想録』早坂茂三著 小学館
『田中政権・八八六日』中野士朗著 行政問題研究所
『田中角栄の資源戦争』山岡淳一郎著 草思社文庫
『記録と考証 日中国交正常化・日中平和有効条約締結交渉』石井明ら編 岩波書店
『求同存異』鬼頭春樹著 NHK出版