仙台藩三代藩主の追い落とし
前回に続いて江戸時代のお家騒動の話をする。独眼竜・伊達政宗が開いた草創期の仙台藩をめぐるいざこざの物語である。江戸時代の藩は、藩主をオーナーとするある種の企業体だ。創業者が独創的で優秀であれほど、後継者の企業運営は難しい。
サラリーマン社長が代を継ぐ企業ならいいが、個人商店的オーナー企業であれば、血筋から(できれば嫡子から)2代め、3代目めへと継いでいくのが、もっとも安定的なシステムだろう。67万石を誇る仙台藩も、実子相続制をとった。初代政宗のあと2代めを継いだ忠宗が死ぬと当然、その子である綱宗(つなむね)が跡目を継いだ。ここでトラブルが起きる。政宗の子の一人で支藩である一関藩主の伊達宗勝(むねかつ)が綱宗の放蕩を理由に隠居させるよう、幕府に願い出たのである。
仙台藩は幕府から江戸城外堀の改修を命じられ、綱宗は江戸に出て工事指揮を取っていた。「幕府役人の接待で夜毎飲み歩き藩政を顧みない」と、綱宗隠居の願書にしたためられている。この時、綱宗は21歳の遊び盛りで多少は度を過ごしたかもしれないが、藩内で処理すれば済む話だ。藩重鎮と連署で訴え出た宗勝は、政宗の後継選びで「私も有資格者」と公言していたから、胸に一物あり。
さらに、追い落とされた綱宗の母が後西天皇の母と姉妹で朝廷に近い。幕府は外様の雄藩が天皇家と近づくのを警戒していたから、幕閣は願書を受け入れるものと踏んで訴え出た。果たして幕府は訴えを認め、綱宗を隠居させ、嫡男でまだ2歳の亀千代に家督を譲らせた。そして宗勝ら二人をその後見役とした。
野心家を後見役に置く愚
こうなると宗勝はやりたい放題だ。家老人事も宿老家持ち回りの原則を無視して取り仕切り、実質的な藩主として専制体制を敷いた。一種の宮廷クーデターの勃発だ。権威と権力が二分されると、藩内は宗勝派と反宗勝派の抗争が起きた。宗勝は反対勢力を処断するから抗争は激化する。責任の一端は裁定を下した幕府にある。前回、鍋島騒動で見たように、後継者が幼少で後見役が必要な場合は、野心のない実務家を置くべきなのだ。野心満々の宗勝を介添えに置くとトラブルは収まるわけがない。
抗争は、伊達家内部の土地争いに発展し、またしても幕府の裁可を仰ぐことになるが、その意見聴取の場で両派の刃傷ざたが起きてしまう。ここにきて幕府は宗勝を後見役からはずして、一関藩から移封し、亀千代に相続権を公式に認めた。
これで騒動は収まらない。騒ぎを見て育った亀千代(元服して綱村=つなむら=を名乗る)は、権力を集中するために、周辺を側近で固める。反発する藩重鎮達は繰り返し、幕府に「綱村隠居」を願い出て、五代将軍徳川綱吉が綱村隠居を勧告するまで、東北の雄藩は揺れ続けることになる。
派閥ができれば権力抗争が起きる
男社会は常に群れる。どんな組織でもオーナーのグリップが緩めば、部下たちは権力を掴み取ろうと群れて派閥ができる。派閥ができれば権力抗争が起きる。派閥の原動力は、所属する群れが勝ち残れば望むポストが手に入り、負ければ消え去るしかないという〈恐怖の力学〉による。伊達藩二分の混乱原因もそこにあった。ところが…。
話は変わって、17日に告示された自民党総裁選挙。今回の総裁選には4人が立候補している。不思議なことに派閥内から候補者がいる派閥も、派閥内候補がいない派閥も、岸田派以外は支持候補を鮮明にしない。派閥の領袖のグリップ力が衰えていて支持候補絞り込みと締め付けをできないでいる。所属議員たちは目の前のポストより、直後に控える総選挙を戦う際に、誰が党の顔になるのが有利かで動き始めて浮き足立っているからだ。
領袖たちは、総選挙後の組閣で主流派の地位を獲得するために、旗幟を鮮明にしないで、勝ち馬を見極められないでいる。
自派の河野太郎氏(行政・規制改革担当大臣)が立候補する第二派閥の麻生派オーナーである麻生太郎財務相は、16日の緊急派閥総会で、自主投票方針を示した上でこう強調した。
〈これは学級委員選挙とはわけが違う。政権政党、自由民主党のリーダーを争う選挙だ。当然のこととして権力闘争だ。総裁選挙という名を借りた権力闘争だ。負けたら冷や飯を食う〉
1回目の投票で勝者が見えたら、勝ち馬に乗ろうという宣言だ。リーダーとしてのグリップが緩んでいながらも、(冷や飯を食わないための)派閥としての権力闘争であることを言い渡し、〈恐怖の力学〉を力説する奇妙さ。
コロナ禍をそっちのけで党内の権力闘争に埋没しているようでは、伊達藩を裁いた徳川幕府ではなく、国民による裁定が下る事になる。総選挙は間もなくである。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『別冊歴史読本 御家騒動読本』新人物往来社