ローマとカルタゴ両軍はついに中部イタリアのカンネーの地で激突した。
この一戦に形勢の逆転をかけたローマ軍が敷いた布陣は、相も変わらず中央に軽装歩兵とその背後に重装歩兵を縦に連ねる。
歩兵兵力なら8万対4万、ローマ軍が圧倒していた。歩兵で一気に敵の中央を突破する戦術だった。
ローマ軍は両翼に配置した騎兵の数と質は劣っていたが、総司令官のウァロは、騎兵が持ちこたえている間に勝負はつくと計算する。
とっておきの精鋭1万を、とどめの要員として陣営に残す余裕を見せるほどだった。
しかし、ハンニバルは新たな戦術で臨んだ。前衛の軽装歩兵を中央が出た「へ」の字の弓形に置いて敵の猛攻に時間を稼ぐ陣形を敷いた。
軽装歩兵と重装歩兵が入り乱れて剣を振り上げ殺到するローマ軍は、押しに押したが、カルタゴの軽装歩兵がカーテンを開くように左右に別れて側面に回り込み、疲れ切ったローマ歩兵の正面に新手の重装歩兵が壁となって立ちはだかる。
左右両翼の騎兵戦でローマ騎兵が総崩れになるころには、歩兵七万は完全に包囲され、玉砕した。
戦死7万、出動することなく陣営に残った精鋭1万は捕虜となる。これほどの惨敗はローマ史上、先にも後にもない。
それでもローマはくじけない。なんとかローマに帰還したウァロを市民たちは歓呼で迎えて敢闘を讃え、かえって戦意は高まった。
ローマ軍の強さは、貴族層から平民まで、市民の義務として兵役につくことにある。だれもが自分のこととして戦いに赴く。
カンネーの戦場でも、共和制の中核である元老院議員たち80人が兵士として命を落としている。
敗戦の責任は市民全員にあると考えるから、敗軍の将を処刑することもない。敗戦から学んだ将にこそ次を期待し再び兵を預ける。処刑の対象は、敵前逃亡と命令違反だけなのだ。
戦いであれ経営であれ、トップが安全な銃後で命令だけ出し、責任は現場にとらせて次々と首をすげ替える組織は多い。
そんな組織が“戦い”にいかに弱いかは、現代でも同じことである。
かたやカルタゴ軍。ハンニバル個人の軍事的天才にその強さを負う。兵は基本的に傭兵である。戦いにかける義務感と決意に劣る。
だれよりその弱点を知るハンニバルは、大勝利の後、南イタリアに籠もって各都市の攻略を続け、粘り強くローマ連合の瓦解を目指す戦略を継続する。 (この項、次週へ続く)