家康が書状をまさに乱発して諸国の大名を味方につけるべく利益誘導し、あるいはすでに徳川方についた将を督励している間、三成もただ手をこまぬいていたわけではない。
各地に説得の使いを送り出したが、家康とは格が違った。かたや家康は東海から関東にかけて覇を唱える石高255万石、天下一の大大名である。
三成は琵琶湖東岸の要地、佐和山を押さえているとはいえ、わずか19万石に過ぎない。
領地安堵を約束しても説得力に違いがありすぎる。総軍勢で西軍が東軍を上回るとはいえ、三成が自分より格上の大名たちが居並び日和見も多い西軍を率いるには、荷が重すぎた。
事務方出身で軍事の経験が少ない身では、現実の作戦面は、副大将の宇喜多秀家ら野戦派に振り回されることとなる。軍事指揮においても三成には説得力を欠いた。
徳川方の主戦力である福島正則ら豊臣恩顧の将で三成に反感を持つ者たちが率いる約5万の兵が、決戦場近くの名古屋の清洲に集結したころになっても、三成方の主力は、各地で籠城する徳川方の抗戦に手を焼き続ける。
九州では、西軍の決起を機に旧領を奪還しようと野望に燃える大友義統(おおとも・よしむね)が、肥後・熊本に依る加藤清正、豊前・中津を拠点とする黒田如水という猛将を相手に孤軍奮闘していた。
丹後田辺城では細川幽斎がわずか500の兵で1万5千の兵を引きつけ続けた。田辺城が落城したのは、9月13日、決戦の二日前だった。
近江の大津城では京極高次が決戦直前になって三成に反旗を翻して立て籠り、朝鮮の役で百戦百勝の伝説を残す知将、立花宗茂らが率いる1万5千の兵に抵抗。高次が開城したのは関ヶ原合戦当日の朝で、西軍中最強と期待された立花宗茂は戦場に姿を見せることがなかった。
さらに三成ら西軍の主力は、徳川方についた伊勢の諸城攻略に手こずり、岐阜、大垣方面の到着と調略は遅れに遅れる。
〈百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり〉戦わずに敵を屈服させるのが最高に優れたことだ。=「孫子」謀攻篇
動かぬ家康にはめられた三成はいたずらに兵を分散させて消耗する愚を犯す。
江戸に籠る家康は、脇息に肘を置き悠然と側近に問いかけた。
「毛利の件はいかがあいなったか」
気がかりは、敵の総大将に担ぎ上げられた毛利輝元に対する調略工作のその後であった。戦わずして勝つために。 (この項、次回へ続く)