アルゼンチンの軍事侵略
フォークランド諸島は、南米アルゼンチン沖の大西洋にある。1765年以来、植民地として英国に帰属していた。1,800人の島民は、9割以上が英国にルーツを持ち、帰属をめぐる数度の住民投票では圧倒的に英国帰属の意思を表明している。
当時アルゼンチンの軍事政権を握っていた大統領のレオポルド・ガルチェリは、就任以来、「フォークランドはアルゼンチン領土である」と繰り返し表明していた。1982年3月31日、ついにアルゼンチン艦隊が本国を出航して同諸島に上陸し二日で占拠した。英国とアルゼンチンが同諸島をめぐり海と空で激突するフォークランド戦争の幕開けである。
英国首相のマーガレット・サッチャーは、情報機関の報告でこの危機を察知していたが、当時英国は経済苦境にあって失業者が溢れていた。国内には、本国から12,000キロも彼方にするフォークランドは「アルゼンチンに返還すべきである」との世論も根強くあった。政界には、大艦隊を派遣する戦争は国の経済を瓦解させかねない」と派兵に慎重だった。外務省も「話し合いで紛争を解決させるべきだ」との宥和(ゆうわ)論に立っていた。
しかしサッチャーは揺るがぬ意志で決断する。4月3日の会議で、サッチャーは、「大型の任務部隊を載せた海軍艦隊を準備が出来次第、出航させる。わが政府の目標は、同諸島が英国の管理下に戻るのを見ること」と明確に告知した。
チャーチルの教訓
サッチャーを取り巻く情勢は、第二次世界大戦でナチス・ドイツの欧州席巻を許すことになる宥和論に引きずられた当時の状況に似ていた。
1940年5月、ヒットラーとの徹底対決を主張して首相に就いたチャーチルの「われわれは戦う」という力強い演説を、マーガレット(サッチャー)は、ロンドンで父親が営む雑貨店の2階で聴いた。当時14歳の多感な少女は、防空壕でドイツ空軍の猛空襲に耐えながら、折々のチャーチルの演説を聴き、戦時内閣を率いる首相の強い指導力を支持した。両親はナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人の少女を自宅に受け入れている。少女からの話を聞いて、一見力強く見えても独裁者ヒットラーによるドイツ政治指導の暗部を知る。
「軍事力を背景にした独裁ほど憎むべきものはない」。民族の自尊心、愛国心に巧みにすり寄るファシズムには、何らの幻想も抱かなかった。実際にガルチェリ政権は、政治弾圧で数千人を殺害した疑いが持たれていた。
アルゼンチンと戦端を開くに当たってサッチャーは会議を繰り返したが、「英国が戦いを挑めば、世界の信用を失う」と主張する外務省に対して、「アルゼンチンの軍事独裁政権の侵略を認めることこそ、英国への信頼を損なう」と強い言葉で一蹴した。
「鉄の女」は国民を一つに
彼女を評して「鉄の女」と言う。「意志の強い女」というポジティブな評価というよりは、「言い出したら聞かない」頑固者というマイナスイメージで語られ始めた愛称だった。サッチャーが決意を伝えた会議で、ある野党議員は、「数週間もすれば、彼女自身と下院、そして世界の国々は、彼女がどんな金属でできているかを知ることになるだろう」と嫌味を言い残す始末だった。
戦いは、激戦が続き、駆逐艦シェフィールドがアルゼンチン軍のフランス製ラファール戦闘機が放ったエグゾゼミサイルによって撃沈されるという第二次大戦以来の屈辱を味わうことになる。
それでも兵士たちは首相の激励に応えて奮闘し3ヶ月後、島を奪還した。勝利の後、サッチャーは、戦勝報告集会の演説に立った。
「わが国は偉大な勝利を勝ち取りました。わたしたちは誇りに思う資格があります。この国は、なすべきことが分かっていること。正しいと分かっていることを成す決意をもっていました。わたしたちは侵略が割りに合わないことを示すために戦ったのです。戦いの前、わが国の衰退は不可避的だと思っている人々がいました。しかし彼らは間違っていたのです。フォークランドの教訓は、英国は(栄光の時代と)変わっていないことを示したのです」
鉄の女は国民の心を一つにして、この後、経済苦境という最大の難関に挑むことになる。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『サッチャー回顧録(上・下)』マーガレット・サッチャー著 石塚雅彦訳 日本経済新聞社
『戦時のリーダーシップ論』アンドルー・ロバーツ著 三浦元博訳 白水社