呉服屋から紡績業へ
明治維新後、まず日本の近代化を率いた産業は繊維産業(紡績・製糸)だった。いまや世界的な繊維の比重は発展途上国に移ったが、戦前はその生産品は世界一の輸出量を誇り、国内での工業生産全体に占める繊維産業の割合は、企業数、従業員数ともに4割を占めていた。戦前の繊維産業の担い手は、中央の大手財閥ではなく、各地方の名望資産家たちである。
岡山県でその役割を果たしたのが、江戸時代から倉敷で呉服商を営んでいた大原家だ。地元の篤志家たちが共同で出資して、倉敷で栽培が盛んだった綿花を生かして紡績業を立ち上げた。その倉敷紡績(現クラボウ)を大原家が経営することとなる。
倉敷の大原家といえば、国内外の多彩な絵画・美術品コレクションで有名な大原美術館で知られるが、国内屈指の私立美術館を設立したのが、倉敷紡績の二代目社長の大原孫三郎(まごさぶろう)だ。孫三郎は、父・孝四郎(こうしろう)が堅実に礎を築いた会社を、時代を先取りした経営手法で大きく発展させている。
逆転の発想の危機対応
若い日に東京へ遊学した孫三郎は、金持ちの息子として借金を重ねて遊び呆け、孝四郎から呼び戻される。孫三郎の兄二人は早世しており孝四郎は後継者問題で大いに悩むが、結婚を機に改心した孫三郎に紡績業の後事を託す。
孫三郎が経営を引き継いだのは1906年(明治39年)。2年前に工場の女子寮で腸チフスが蔓延して七人が死亡していた。待遇改善を求めて女工たちがストライキを起こし、孝四郎は引責辞任している。時あたかも労働運動が社会を席巻しており、経営は行きづまっていた。女工哀史の世界である。さらに日露戦争(1904〜1905年)後の反動不況で繊維製品の売り上げは激減し、紡績業は軒並み経営不振に陥っていた。社を取り巻く環境はまさに危機的だった。
危機的状況に孫三郎は逆転の発想で立ち向かう。一つには、事業を投げ出す同業社が相次ぐ今こそ、経営規模拡大のチャンスだと考えたこと。近隣の吉備紡績が持ちかけてきた工場買収の打診にゴーサインを出す。買収金額は倉敷紡績の資本金を上回る巨額だったが決断した。さらに第三工場を増設する。誰もが「孫三郎は気が触れたか」と嘲笑った。
逆転の発想の二つめは、生産性向上のためにも労働環境を整備する必要があると見たことだ。そのために社員待遇を含めた社内改革に乗り出す。社員、女工の不満を強権で押さえ込もうとはしなかった。
十人のうち二、三人が賛成する時が好機
周囲が危惧した不況下での設備投資拡大の結果はまもなく「吉」と出た。1914年に第一次世界大戦が始まると、主戦場となった欧州の生産がストップし、日本の工業製品は飛ぶように売れた。紡績業も息を吹き返した。逆転の発想で生産設備を増強していた倉敷紡績は、好況の恩恵をたっぷりと受け取ることになった。
第一次世界大戦が終結すると、またしても戦後不況がやってくる。しかし、ここでも孫三郎の“やわらか頭”が力を発揮する。〈これからは、天然素材の綿糸、絹糸だけでなく、必ず化学繊維の時代がやってくる。その時代を先取りすれば落ち込んだ需要をカバーできる〉
倉敷紡績は、京都大学工業部(現・工学部)と協力して人造絹糸の研究をはじめる。産学連携の先駆けだ。1925年には「京化研究所」を立ち上げて研究員を欧州に派遣し製造特許の導入に動く。翌年に設立した倉敷絹織(現・クラレ)につながった。
時代を先取りする先見性と柔軟思考について孫三郎はこう自負している。
「わしの目は10年先が見える。10年たったら世人にわしがやったことがわかる」
時代を先取りした事業をはじめるには判断指標がある、と孫三郎は常々語っていた。
「仕事を始めるときには、十人のうち二、三人が賛成するときに始めなければいけない。一人も賛成がないというのでは早すぎるが、十人のうち五人も賛成するようなときには、着手してもすでに手遅れだ。七人も八人も賛成するようならば、もうやらない方が良い」
含蓄のあるアドバイスだ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『大原孫三郎―善意と戦略の経営者』兼田麗子著 中公新書
『日本の地方財閥30家 知られざる経済名門』菊地浩之著 平凡社新書