公的存在としての企業
前回見てきたように、倉敷紡績(現クラボウ)の二代目経営者として、傑出した先見の明をもって事業規模を拡大してきた大原孫三郎には、二つの精神的支柱があった。一つは若いころに耽読した二宮尊徳の教えであり、いま一つは、「岡山の四聖人」の一人、石井十次に感化されて入信したキリスト教の社会奉仕の精神だった。
孫三郎は、繊維工業の革新に邁進したが、それとともに社会貢献にも足跡を残した。労働問題、社会問題に大きな関心を寄せ、1910年代から次々と関連機関を設立している。大原奨農会農業研究会(1914年、現岡山大学資源生物科学研究所)、大原社会問題研究所(1919年、現法政大学大原社会問題研究所)、倉敷労働科学研究所(1921年、現財団法人労働科学研究所)。いずれも現在に繋がっている。
また、1930年には、倉敷市内に大原美術館を開設しているが、資産家の美術品収集道楽の域を超え、多くの芸術家たちを育てる活動を続けてきた。さらに大倉奨学会を通じて地域における次代の人材の育成にも尽力した。
孫三郎にとって企業は公器であって、企業活動は単なる経済利益の追求に止まらなかった。社会的使命を実現する場であると強く意識していた。
跡取りの遇し方
その彼にとって、経営の継承問題は晩年の大きな課題となった。50代で心筋梗塞の発作を繰り返すようになり、体力的限界を感じていた孫三郎には、東京帝国大学に進んだ長男の総一郎がいたが、輩下には職業的経営者たちも力をつけてきてきた。
考えてみれば、初代の孝四郎は、地元の倉敷財界が立ち上げた倉敷紡績の経営をまかされ、孫三郎が跡を継いだが、純然たるオーナー企業というわけではなかった。1932年(昭和7年)に、大学を卒業した総一郎は倉敷絹織(のちに倉敷レーヨン、現クラレ)に入社したが、その経営者としての手腕は未知数だった。総一郎は入社早々に四国新居浜の新工場建設現場に見習いとして出向させられる。孫三郎は、長男の現場での働きぶりでその力量をはかろうとしたのだろう。“試験”の結果を父がどう見たのかは不明だが、見習い後、父は子を三年間、欧州に遊学させて現場から遠ざけ、社内外の情勢を見極める。
そして決断する。1938年、帰国した総一郎を倉敷絹織の常務に迎え、翌年、孫三郎は引退する。総一郎は倉敷絹織の社長となり、本体の倉敷紡績社長には、生え抜きの常務を社長に据えた。過渡期の後継体制を敷いたことになるが、隠居した孫三郎はことあるごとに「総一郎は私の最高傑作」と公言してはばからず、社内外に「総一郎後継」を鮮明にした。三年後、総一郎が本体・倉敷紡績の社長に就き、三代目の体制が完成する。
引き継がれる精神的遺産
大原家は、戦後、G H Qの財閥解体政策で地方財閥に指定されて持ち株会社のすべての株式を放出させられたが、孫三郎の経営思想は今に至るまでクラボウに脈々と引き継がれている。
総一郎は戦後、一時経営から離れたが、1949年に経営陣から請われて合成繊維部門の倉敷レイヨン社長に復帰する。復帰するや彼は、社内で研究が進められていた新繊維素材「ビニロン」の商品製造を打ち出し、ヒット商品を生み出した。さらに総一郎は、国交正常化前の中国との間でビニロンのプラント輸出契約を結び、1965年から中国での生産を始めた。時代を先読みせよという孫三郎の理念が生きた。
二年後に総一郎が世を去ると、大原家は完全にクラボウ・グループの経営から離れるが、先に触れた、孫三郎が設立した各種の社会問題研究所と大原美術館は、現役として今も社会に貢献している。
〈私に与えられた仕事とは、私の理想を社会に実行するということである〉(大原孫三郎)
そして、今回のコロナ禍。クラボウが国内初の新型コロナウイルスの検査キットを他社に先駆けて発売したのも、孫三郎精神の発露なのである。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『大原孫三郎―善意と戦略の経営者』兼田麗子著 中公新書
『日本の地方財閥30家 知られざる経済名門』菊地浩之著 平凡社新書