ロシア太平洋艦隊長官のマカロフの戦死とそれに対する日本側の弔意が事態を動かしたことは前回書いた。
この時点までの戦費調達のための公債の発行は見通しが暗かった。ロンドンのある金融家は、「60万ポンドまでなら貸そう」と申し出ていた。マカロフ戦死の翌日のことである。
高橋是清が政府から受けた命令は、1000万ポンド(1億円)の公債による調達である。余りに額がかけ離れている。しかも融資であれば返済期間も短く担保条件も厳しくなる。
しかし、戦費が苦しくなった政府からは3日後に、「大蔵省証券を発行してもいいから、まずは借りろ」と電報で命じてきた。
香港上海銀行は、「200万ポンドなら起債を引き受ける」と持ちかけてきたが、償還期間は3年で、これでは公債発行とは名ばかりで融資と同じことである。
日本政府が決断しているのだから、そこで妥協してもよさそうだが、高橋はより好条件を求めて粘った。戦争の長期化に備えロンドンで公債発行の安定的な枠組みを構築する必要があると見ていた。
入口で安易に妥協しては、その後も足元を見られて妥協を重ねることになる。交渉で避けるべき要諦だ。
マカロフ戦死が英紙「タイムズ」に報じられた14日から16日にかけて、既発の日本公債の価格は底を打って反発を始めていた。かたやロシア発行の公債価額は下落を始める。
戦時の国際金融は非情なものである。戦勝国に乗れば、賠償金を得られて償還も安定する。弱小側に投資するなら、利息を少しでも引き上げて償還期間を可能な限り短くする。
ハイリスク・ハイリターンで勝ち逃げを目指す。投資家にとってはいずれもが、“うまい話”なのだ。渡り合うには、借りる側も毅然とした態度が不可欠である。高橋はそれを承知していた。
「潮は満ちつつあるではないか」
“マカロフ事件”で、英国内の世論は日本に好意的になりつつある。
4月24日、高橋はロンドン総領事を訪ねてこう見通しを伝えている。
「1000万ポンドの保証(担保)付き公債を期限7年ないし10年程度の条件で当地で発行する心づもりだ」
わずか10日で強気になった高橋の“心づもり”には裏付けがあった。
ある米国人が動きはじめていた。 (この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※ 参考文献
『高橋是清自伝(上、下)』 高橋是清著 上塚司編 中公文庫
『日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち』 板谷敏彦著 新潮選書
『日露戦争史』横手慎二著 中公新書