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危機への対処術(8) 危機の能力と平時(ウインストン・チャーチル)

指導者たる者かくあるべし

 確固とした歴史観と広い視野

 1945年5月8日、ドイツ降伏の日、保健省庁舎のバルコニーに立ったチャーチルは、集まった群衆の歓呼に応え、こう叫んだ。「神の祝福を。これはあなた方の勝利です」。


 まさにその通りだった。開戦当初、圧倒的な軍事力を誇るナチスドイツ軍の猛爆撃に耐え、勝利した背景は、不屈の闘志で国民を鼓舞したチャーチルと国民との間の強い信頼関係があったればこそだ。国民は「最後まで戦い抜く」という首相の言葉を信じ苦境に耐え抜いた。勝者は国民だった。


 戦時内閣の首班に指名されたチャーチルに「私は必ず勝利する。決して失敗はしない」と言わしめたのは、彼が確固とした歴史観を持ち合わせていたからだ。国内の宥和(ゆうわ)主義者たちが、ソ連の台頭を恐れてヒットラーとの妥協を模索する中で、敢然と「共産主義のソ連と手を結んででもドイツを叩く」と主張したのは、決して容共主義によるものではない。ドイツとソ連が手を結べば、ヒットラーとスターリンという二人の独裁者に欧州は屈することになるという確信だった。それを防ぐためにソ連を利用するプラグマティック(実用主義的)な柔軟性も持ち合わせていた。


 そして、対独戦に勝利した後は、自由主義と共産主義が衝突する冷戦時代が到来することを予測し、見抜いていた。チャーチルの最大の政治的武器は確固とした歴史観と、それに基づく幅広い視野だった。学者ではない。あくまで政治指導者として。


 「目の前の勝利より、歴史における勝利者となる」との信念が彼にはある。

 

「歴史をさかのぼれば未来が見える」

 こうした卓越した未来の予見性についてチャーチルは、周囲から「どうすれば、身につくか」と問われるたびに、次のように答えたという。


 「歴史に学べ、歴史に学ぶのだ。国家経営の秘訣はすべて歴史のなかにある」と。


 軍務についていた若き日のチャーチルは、他の将校仲間が疲れて昼寝している間も、一人、読書を欠かさなかった。英国史のあらゆる書籍、そして18世紀の歴史家エドワード・ギボンの名著「ローマ帝国衰亡史」は、のめり込むようにして読んだと回想している。


 兵舎で読書三昧のチャーチルは、周りから変人扱いされ疎んじられたという。だが、こうした経験が、戦時内閣を率いることになったとき、「これまでの人生すべてがこの時、この試練のための準備に過ぎなかったかのように感じた」とチャーチルに言わせたのである。


 「歴史をさかのぼって洞察すればするほど、より遠くの未来が見えてくる」。チャーチルの実感だ。


 国家経営のみならず、企業経営においても、そういう幅広い知恵の蓄積が危機を脱する道であろう。

 

 戦後の挫折

 対独戦の勝利後は速やかに総選挙を行う、との公約に基づいて、挙国一致内閣は解消され1945年7月5日に総選挙が行われる。チャーチル率いる保守党は、労働党に惨敗(労働党394議席、保守党213議席)し、戦時指導者のチャーチルは下野する。


 対日戦争はまだ続いていたが、国民は戦争に飽きていた。危機の指導者像よりも、「戦後の社会保障制度の充実」を訴える労働党に夢を託した。国王ジョージ6世は、チャーチルの戦勝功績に対してガーター勲章の授与を決めたが、チャーチルは、「選挙に敗れた首相がどうして陛下から勲章をいただけますか」と固辞した。


 野に下ったチャーチルは、自ら戦前に予測した通り勢力を強める共産主義に対抗するためヨーロッパ合衆国構想を主張し始める。構想は彼の死後、段階を経てEU(欧州連合)として結実する。
 どこまでも未来予測の指導者だったが、危機を忘れた平時の国民は、危機の指導者など必要とはしないのだ。

(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com

※参考文献
『第二次世界大戦2』W・Sチャーチル著 佐藤亮一訳 河出文庫
『ダウニング街日記(上)首相チャーチルのかたわらで』ジョン・コルヴィル著 都築忠七ら訳 平凡社
『危機の指導者 チャーチル』冨田浩司著 新潮選書

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