和平の模索
陸に海に日本軍が敗北を重ねていた1944年(昭和19年)8月29日、海軍教育局長の高木惣吉(たかぎ・そうきち=少将)は、海軍次官の井上成美(いのうえ・しげよし=中将)に次官室へ呼び出された。
「事態は最悪のところまで来ている。ついては戦局の後始末をしなければならんが、君は私の下でその研究、工作をやってもらいたい」。海相の米内光政(よない・みつまさ=大将)も承知の人事だった。海軍が極秘に終戦方策について動き出した。
高木は、上大崎の海軍大学校内に事務所を設けて、病気療養の名目で熱海に籠り、極秘に内外情勢の情報収集と和平の道を模索し始める。そして米内海相あてに、「一次答案」をまとめる。最大の難関は、「本土決戦」にこだわる陸軍をいかに説得するかにあった。
1、陸軍をどうやって終戦に同意させるか。
2、国体保持の危惧と、連合国側の降伏条件をどう調節させるか。
3、民心の不安動揺をどうして防止するか。
4、天皇の決意を固めるために、海軍をはじめ各方面で密かに胎動している和平運動を、いかに連結統合して宮中に伝えるべきか。
重要なのは、天皇を動かし、いかに「錦の御旗」を手に入れるかであった。
トップに伝わらない正しい情報
天皇の決断を促すといっても、陸軍は、「戦況は五分五分」と虚偽の上奏を繰り返しており、比較的風通しのいい海軍でさえ、「(艦艇を動かす)石油は十分にある」と実態と異なる報告を行ってきた。
危機のリーダーに求められるのは決断の一点だが、決断をしようにも、正しい情報が上がっていなければ、正しい決断はできない。組織のトップに立った人間ならば、だれしも経験することだ。トップの権威が絶大であればあるほど、部下は自己保身に走り、正確な情報は組織の上に上がらない。言うことがはばかられる。そのことで組織が瀕死の状態に陥る事例は枚挙に暇がない。
1945年4月、和平に含みを持たせた枢密院議長の鈴木貫太郎が内閣首班についても、事態は動かない。高木の根回しが進み、外務省、内大臣の木戸孝一(きど・こういち)が和平転換の絶好の機会ととらえて開かれた同6月8日の御前会議でも、「和平交渉を進めても、終戦後に連合国から国体(天皇制)が護持される保証はない」との意見が大勢をしめ、「戦争遂行」方針を決定するに終わった。
しかしこの時、海軍は、「戦争を遂行するたけの石油と艦艇はない」との報告書も宮中にあげている。これが木戸を動かし天皇を動かす。6月22日、天皇は最高戦争指導者会議メンバーを集めて、「時局収集(終戦和平)」の意思を示した。外務省を中心に、連合国の中で唯一、日本との間で不可侵条約を結んでおり中立的立場のソ連を仲介とした水面下の和平工作が動き出す。
対ソ連工作の無駄骨
一方、高木は、スイス、スウエーデンなど欧州内の中立国に張り巡らせた情報網から、「ソ連は対日参戦の可能性あり」との情報をつかんでいた。さらに、米国のアレン・ダレスを総局長として欧州に設置した戦略情報機関(OSS)との接触にこぎつけ、自ら乗り込んでの直接交渉を模索していたが、海軍上部から「謀略の疑いあり」として接触は阻止された。日本政府は対ソ仲介工作にこだわり、直接和平交渉の機会を逃す。日本の無条件降伏を迫る米、英、中国によるポツダム宣言(7月28日)を無視し続ける中で、広島、長崎が米軍による原爆の被害を招き、8月9日、頼みの綱のソ連は、高木の情報通り、満州に進軍し、悲惨な終戦を迎えることになった。
ダレスは、「日米の秘密交渉を行うなら、ソ連参戦前に行うべきだ」と本国に打電していた。米ソはすでに戦後の両国対立を見越し、極東の覇権争いに突入していた。日本と米英間の和平仲介などソ連の外交戦略の外にあった。ソ連仲介に望みをかけた終戦外交は、高木が上げた正しい情報を無視し、とんだ無駄骨に終わった。仲介どころか、ソ連の介入を招く。
戦後日本は連合軍の占領下で苦酸を舐めることになるが、ドイツ、朝鮮半島のように東西両陣営に分割されなかったことだけが、不幸中の幸いだった。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『私観 太平洋戦争』高木惣吉著、文藝春秋社
『日本の歴史 25 太平洋戦争』林茂著 中公文庫
『終戦の軍師 高木惣吉海軍少将伝』工藤美知尋著 芙蓉書房出版