ナチスドイツの台頭と中立の危機
1914年に勃発した第一次世界大戦でスイスは、ドイツ、オーストリアと英仏連合軍のはざまで中立を守り抜いた。かえって双方に食料、軍需物資を輸出することで特需景気に沸いた。しかし、それもつかの間のことで、ヒットラー率いるナチスドイツが台頭してくると、永世中立国家の維持に危機が訪れる。
ドイツは1938年にスイス隣国のオーストリアを併合すると国境を圧迫し、ドイツに与するように外交圧力を加えてくる。翌年9月1日、ヒットラーはポーランドに侵攻して、イギリス・フランスとの間で第二次世界大戦が始まった。
1940年になると、ドイツ軍は西部戦線に注力し、中立を宣言していたオランダ、ベルギー両国を占領し、6月にはフランスが降伏し傀儡政権が樹立される。
オランダ、ベルギーのように中立を宣言しているだけでは、圧倒的なドイツの軍事力の前に国を守れないことを見せつけられた。南に隣接するムッソリーニのイタリアがドイツと軍事同盟を結ぶと、スイスは国境の全てをドイツ枢軸国に取り巻かれてしまう。中立どころか国の独立も危ぶまれる危機的状況だ。
総司令官アンリ・ギザンの揺るがぬ戦略
この事態に国防を任されたのは、フランス語圏出身の将軍、アンリ・ギザンだった。ドイツ軍がポーランドへ雪崩込む直前、危機を見てとったスイス議会から国軍の総司令官に任命される。非常事態にのみ置かれる緊急ポストだ。
ギザンはまず総動員令を発令し、予備役を召集して陸軍43万人体制をとった。この数字は当時の国民の10%が兵役に就いたことになる。いまの日本でいえば1200万人が召集されるとてつもない数字だ。そしてギザンは、国防プランとして、水際防御を打ち出す。ドイツ軍であれ連合軍であれ領土侵略を試みた場合は、自ら国境の交通インフラを破壊して進撃を食い止め、防御網が破られた場合は、平地を捨てて兵士は山岳部に籠り、ゲリラ戦で徹底抗戦することを徹底させた。
また、いかなる国の軍用機であれ領空侵犯すれば撃墜するように命じた。実際に大戦中、スイス空軍は、精強なドイツ空軍機を11機撃墜しており、連合国軍機も攻撃している。ハリネズミの国防体制を徹底した。
とはいえ、スイスは複合民族国家で、多数派のドイツ語圏の国民にはナチスの国家社会主義に共鳴する人々も多い。独立維持のためには、スイスのアイデンテティを強調する必要があった。ギザンは、スイスが神聖ローマ帝国から独立を勝ち取った決起の地、リュトリの草原に将校たちを集め、山岳戦での徹底抗戦を呼びかける演説を行う。
「先祖代々、独立を守ってきた経験を活かし、軍がその備えを怠らず、我々の権利を信じていれば、我々の軍も効果的に抵抗できると信じようではないか!」。独立の故地で誇り高い歴史を思い起こさせて国軍の団結を図った。
スイス人のしたたかさに学べ
スイスの地政学的重要性を重視したヒットラーは、欧州統治のためにスイスの占領は必須だと考える。大戦初期からスイス電撃侵攻(もみの木作戦)を立案していた。何度も実行に移そうとしたが、スイスの頑強な抵抗戦略が揺るぎなく、費用対効果が薄いと参謀たちが諌(いさ)め、延期を繰り返し結局は実行されなかった。
一方で、スイス政府は国家存亡をかけた未曾有の危機に際して、したたかな外交努力も怠らなかった。一つはユダヤ人の扱いだ。開戦時にスイス国内には約20万人のユダヤ人が居住していた。欧州の戦火が激しくなると、各国から難を逃れて中立国のスイスに逃れる亡命ユダヤ人も増え、1943年時点では30万人に達したという。ドイツはユダヤ難民の受け入れ中止をスイスに申し入れる。政府は、国境でのユダヤ人越境制限を受け入れる。だが、各国駐在の公館ではビザの発給も続ける離れわざを講じた。
また、ヒットラーからの軍需物資提供の申し入れについても、政府は公式には拒否するが、「民間貿易」を隠れ蓑に物資を輸送する。ナチスがオランダ、ベルギーで接収した金融資産もスイス銀行で受け入れてマネーロンダリングに協力している。
戦後になってこうしたことが明るみに出て、「スイスは果して中立を守ったと言えるのか」と強い批判を招くことになったが、そのしたたかさがあってこそ、ナチスドイツの脅威を凌(しの)ぎ切ることができたとも言える。
永世中立の理想を叫び続けるだけで、国を失ってしまっては元も子もない。主義に殉じるのを潔しと考えがちな日本人が経験した悲惨な敗戦の対極にある。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『一冊でわかるスイス史』踊共二監修 河出書房新社