戦国の名将・武田信玄は天下取りの志半ばで病に倒れ、後を託した息子の勝頼に、「三年間は自分の死を伏せよ。そして、老臣たちの忠告をよく聞いて、まずは攻めるな、守れ」と遺言している。
「くれぐれも合戦にふけることがあってはならぬ。お前より年上の信長、家康の命運が尽きるのを待て。それまでは上杉謙信を頼り、引き継いだ領国を守り持ちこたえよ」
信長、家康が戦いを挑んできたら、まずは信濃口の天険で守り、甲斐の領内に引き込んで戦えば負けることはない、と守りの要点を具体的に言い残してもいる。
事業を引き継いだ息子は、先代が偉大であればあるほど、父を乗り越えようとして、攻めの姿勢で実績を作ろうとする。
勝頼は武勇においては父にひけを取らないと自負している。信玄は創業者として、そういう才気に富んだ息子にかえって危うさを感じたからこそ、自重を求める遺言を伝えた。
信玄もまた、父を追放してまで家督を継ぎ所領を拡大した野心家であった。死に際して似た境遇の唐・太宗の「創業と守成」の故事が脳裏をよぎったか。
「先代様は、こうなさいました」。残された老臣たちは、二十代で家督を継いだ勝頼をことあるごとに諌めた。企業でいえば、「若社長、それはなりません」という重役の小言に耐えきれずキレる二代目が思い浮かぶ。
勝頼は、長坂釣閑(ながさかちょうかん)ら新側近を周りに置いて、老臣を遠ざけるようになる。
やがて三年の喪があけて勝頼は父の死を公表するやいなや、全軍を挙げて三河に攻め入り、徳川方の出城である長篠の城を囲む。
攻城戦に手こずる間に、信長、家康の援軍が出動してくる。
旧臣たちは、「ひとまず後退し、敵が追撃するなら、信濃口の天険で迎え撃てばよい」と進言した。
しかし勝頼は長坂らの「武田軍は信玄以来、敵を前に逃げたことはない。織田、徳川を一気に叩き潰す好機」という勇ましい主戦論に引きずられ設楽原(したらがはら)に進軍してしまう。
そして待ち構える織田・徳川連合軍の新戦術、鉄砲隊の餌食となり自慢の騎馬群を壊滅させてしまう。
これをきっかけに、武田家では家臣団の離反が相次ぎ、衰亡の道を歩み出す。
後継者が有能であればこそ、「守成」に甘んじることは難しい。先代を越えようと焦る。
後継者に求められるのは、先代に負けない手柄の追求という安易な誘惑を断つことのできる、真の意味でタフな精神なのである。