「仁義礼智信」からの脱却
18世紀の江戸時代中期に、第10代将軍・徳川家治の側用人(そばようにん)兼老中として、幕府財政の建て直しをめざす田沼意次(たぬま・おきつぐ)は伝統的な武家の常識からかけ離れていた。
下級旗本から、将軍の寵愛を受けてあっという間に大名にまで出世した意次に対して、譜代の名門幕閣たちは、「教養がない」と蔑み嫉視する。確かに彼は、武家の素養とされる四書五経に基づく特段の教養があったわけではない。だからこそ、意次は、「仁義礼智信」の儒教倫理の世界から遠い商人、町人の胎動を素直に感知し、偏見なく時代を見る「商人的才覚」があった。
江戸神田橋にあった田沼屋敷には、御目通りを願う人たちが門前市をなしたという。田中角栄の目白御殿を想像すればいい。もちろん利権にありつこうという野心ある者もいただろうが、彼は、家門、地位を問わずに人と会い、意見をかわした。マルチタレントの洋学者・平賀源内(ひらが・げんない)からも知恵を借りる。諸藩の事情も、意次を嫌う儒教教養人としての藩主・家老たちよりも、江戸下屋敷に詰めて実務に通じる留守居役たちと親交を結び情報を得る。
その中から、幕政建て直しのための新しい発想を得て、さまざまに取り組むことになる。幕府官僚の中の“新人類”だった。
貨幣の新鋳
急速な発展を見せつつある商品経済を安定的に促進するためには、通貨の安定が必要だった。当時、江戸では銀本位、上方では金本位で決済が行われていたが、その換率は流動的だった。その調整が両替商の役割だ。意次は、換率を安定させるために、銀貨を新鋳する。五匁銀(ごもんめぎん)といわれるもので、金1両を五匁銀12個と定めた。この銀貨に用いる銀は、長崎貿易を通じてオランダから輸入する。当時の欧州では、新大陸からの銀の流入で、銀の価格は日本より安かった。価格差を利用した改鋳益も幕府に入る。それまで金と銀の交換率は、銀の重さに基づいて決められていたが、彼は重量によらず、金銀レートを固定しようと試みる。
また、補助通貨として真鍮(しんちゅう)の新銅銭(四文銭)を発行する。その銅の確保のために行ったのが、産銅の幕府による独占だった。全国の銅を大坂に銅座を設けて買い集めさせる。また、全国の銅山開発にも力を入れる。秋田藩が不採算で悩んでいた阿仁銅山(あにこうざん)は幕府に移管させた。
いずれも商品流通を促進するために通貨の安定を目指したのだが、大和吉野の銅山開発は、地権者である醍醐寺三宝院の抵抗もあって頓挫し、貨幣政策は思うような進展を見せなかった。
専売制と株仲間公認の功罪
農民からの年貢取り立てに限界を感じていた意次が、幕府の税収確保のために目をつけたのが、活発化する商業活動だった。現代でいうと、所得税を補うため法人税、消費税を重視するようなものだ。
まず着目したのは、高級薬として重宝されていた朝鮮人参の商品価値だ。朝鮮人参は、徳川吉宗の時代に栽培が奨励されていたが、意次は本草学者(薬学者)にアドバイスを求め、高級品種をより分けて採集させる。全国から集荷した人参を江戸神田の人参問屋に独占的に一手販売させる。長崎を通じた海外産の輸入を禁じた。専売を認める代わりに売上から一定の運上金(うんじょうきん)を幕府におさめさせた。こうした専売・徴税の効果を確認した上で、彼は、味噌、醤油、酒、油などの生活必需品にも適用する。
生活必需品流通の円滑化のために、商人たちは同業者による株仲間(座)を結成していた。カルテルである。幕府はこの株仲間を公認し、販売特権を与えることにした。その見返りに冥加金(みょうがきん)という税の上納を課した。生活必需品へのカルテルの公認は、税収の確保とともに幕府の介入で流通を安定させ円滑化させる狙いもあった。その効果もなくはない。だが、当然のことながら株仲間による価格吊り上げで物価の高騰を招くことになり、庶民の反発を招いてしまう。
何よりも問題となったのは、特権・利権にまつわる賄賂政治の横行だ。これが、保守的な武家儒教倫理信奉者たちを刺激し、田沼意次失脚の大きな要因となる。
利権と政治腐敗、いつの世も同じなのだ。 (この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『日本の歴史17 町人の実力』奈良本辰也著 中公文庫