独立運動に武力は必要か
武力行使という究極の暴力には武力で対抗する。「目には目を」の報復思想だ。それが戦争の現実だ。イラン戦争でも、米国とイスラエルは、「イランの核兵器開発を阻止する」というのが奇襲爆撃と最高指導者殺害の口実ではあるが、イランは「核開発計画は平和利用のためだ」と反論する。その核開発協議は継続中だったから、突然の爆撃に理はない。
さらに、当のイスラエルは、米国の暗黙の了解のもとにすでに核兵器を所有していると見られることから、米国の対応はダブルスタンダード(二重基準)の典型だ。いずれにせよ、双方ともに「正義は我々にある」と主張して譲らないから、報復合戦は止まらない。被害者は、イラン、イスラエル両国の国民のみならず、ミサイルの脅威におびえる周辺国の民衆にまで広く及ぶ。影響は中東からの原油供給路の遮断によって全世界にもたらされている。双方が報復の論理から離れ冷静になることを望む。
侵略戦争のみならず、20世紀は、列強の植民地で展開された宗主国からの独立闘争、冷戦終結で東欧各国が社会主義政権の打倒に向かった体制変革運動など、闘争の世紀でもあった。アジアで見ると、フランス(それを引き継いだ米国)からの独立を目指したベトナム、オランダから独立したインドネシアでは、激しい独立戦争を経験したが、武力で対抗せずに民衆の力で独立を果たした国がある。インドだ。大英帝国の圧政からインドを独立に導いたのが、マハトマ・ガンジーの非暴力への強い信念だった。
南アフリカでの強烈な体験
ガンジーは、1869年、日本でいうと明治2年、インド西部のアラビア海に面した一藩王国の宰相の家に生まれた。ガンジーというと、粗末な綿の衣をまとったガリガリの求道僧のような写真を思い浮かべるが、幼少期はタバコも吸う悪ガキだったらしい。家は裕福で何不自由ない暮らしを送った。高校を卒業した18歳で宗主国の首都ロンドンに留学し、大学で弁護士資格を取る。この頃まで植民地問題に大きな疑問を持つこともなかった。
当時のインドは、小さな藩王国に別れ、大英帝国が1859年に宗主国として乗り込んで英国王がインド皇帝を兼任し、英国人総督が治める直轄植民地だった。英国の統治がなければインドは混乱から抜け出せないというのが、植民地エリートの共通認識でもあった。大英帝国はインドの庇護者であり、近代化の教師として受け止められていた。
英国流の法曹教育を受けたガンジーは、1893年に23歳で同じく英国の植民地だった南アフリカに移り弁護士事務所を開業する。このころの南アフリカは植民地エリートのインド人が統治者側人材として移住し、黒人現地人を除くと白人に匹敵する人口があった。そこで、ガンジーは人生を変える屈辱的体験をする。
ダーバンの港に到着したガンジーは、プレトリアの法廷に向かうため、汽車の一等車の切符を取り、乗車しようとした。すると一人の白人の客が憤然として席を立った。車掌がやって来て褐色の肌を指して「有色人種には席はない。三等の貨物車に移れ」と、促した。「切符がある」とガンジーが抵抗すると、警官が来て彼を荷物とともにホームに投げ出した。
駅で一夜を明かし、馬車に乗り換えたが、ここでも白人から、有色なのに生意気だ」とめった打ちにされる。
アパルトヘイト(人種隔離政策)だ。インド人は、被植民地住民の中で特別だと信じてきたガンジーの自尊心はズタズタに引き裂かれた。「何かがおかしい」。ガンジーは、南アフリカにとどまって、弁護士として黒人たちを苦しめる人種差別と戦うことを決意した。
耐え忍び徹底的に抗う
彼の南アフリカ滞在は21年に及ぶ。
ガンジーは自伝の中で、この時の決意をこう書いている。
「自分に、この重い病(人種差別)を取り除く力があるならば、その力を使わなければならない。そのようにしながら、自分の上に苦しみが降りかかるならば、それらすべてを耐え忍ぶべきだ。そして、人種差別を撤廃するために可能なかぎり抗(あらが)うべきだ」。
あるインタビューでは、この時の体験について、「私の人生の中でもっとも豊かな経験の一つだった」と回想している。
「耐え忍び」「可能な限り抗う」。ガンジーは目覚めた。「あらゆる人格は法の下に平等」という信念と、正義を武器として。(この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『ガンジー自伝』マハトマ・ガンジー著 蠟山芳郎訳 中公文庫
『ガンディーの真実』間永次郎著 ちくま新書






















