1870年(明治3年)9月、維新後まもない日本は、清(中国)との公式外交関係を結ぶため天津に外交使節団を送った。直隷総督の李鴻章が応接した。
日本が求めたのは、国際法に基づく近代的外交関係であった。一方の清は、前近代的な“華夷秩序”に捕らわれていた。世界の中心である中国(中華)が、周辺各国(夷)を外交的に庇護し、各国は中国に朝貢し下賜品を受ける形で貿易関係を結んだ。
「それはもはや時代遅れだ。これを機会に日本と対等な条約を結ぶべきだ」と李鴻章は明確な認識をもっていたが、北京の官僚たちは頑迷である。
「失礼な日本など追い返してしまえ」と、李に命じる。李は頑なな総理衙門を次のように説得する。
「日本は資金を惜しまずに、西洋の機械・軍艦を購入し、上は天皇から市民に至るまで国が一丸となって近代化に取り組んでいる。小国だからといって侮ってはならない。人材教育も進めている」
これを敵に回してはいけない、日本と連合して列強にあたるべきである、というのが李の強い意思であった。条約は結ばれた。
李鴻章が日本との応接で、新時代を担う「人材の育成」の重要性に着目したのは卓見である。その後も、李は中央官界に対して、「科挙の制度を廃止し、日本のように自由な人材登用を実現すべきだ」と幾度も上申したが、受け入れられるはずもなかった。
北洋艦隊の「洋務」(西洋化)に取り組む彼は、鎮遠、定遠という最新鋭の戦艦を輸入し、日本に対抗できる軍事面の整備を進める。しかし指揮官の養成システムもないままでは、いかに近代装備を備えても、“張り子の艦隊”でしかないことを誰よりも知っていた。
「日本と戦わぬこと」。対日避戦が、朝鮮半島情勢をめぐって摩擦が高潮する日清関係に対する李の一貫した行動指針である。
日清戦争の引き金となった朝鮮での東学党の乱鎮圧のための両国の派兵時も、乱がおさまるや、彼は撤兵を画策する。しかし光緒帝を取り巻く宮廷は、李鴻章に責任を押し付ける形で対日開戦に踏み切る。
「人材なしでは強大な艦隊も機能しない」と見抜いていた李にとっては初戦の豊島沖海戦と、鎮遠、定遠の大破を伴う黄海海戦での大敗で、敗戦を覚悟する。
「外交なら、情報を握れば負けない」。老獪な李は、その時点で早くも、戦後処理に動き出していた。 (次回に続く)