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- 高橋一喜の『これぞ!"本物の温泉"』
- 第19回 蔦温泉(青森県) 梅雨と蛍の時期に訪れたい足元湧出泉
■光り輝く苔が美しい奥入瀬渓流
梅雨の時期の外出は億劫になりがちだが、この季節だからこそ訪れたい温泉がある。青森県の蔦温泉旅館は、ブナの原生林に囲まれた一軒宿である。宿の周囲は自然に恵まれ、近くには十和田湖や奥入瀬渓流といった観光スポットもある。
十和田湖は、十和田火山の噴火で形成されたカルデラ湖。夕方、入り江の高台から眺めた十和田湖は、夕日に照らされてオレンジ色にキラキラと輝いていた。紀行文の名手として知られる作家・大町桂月は「山は富士、湖は十和田湖、広い世界にひとつずつ」と評したという。
十和田湖から約14キロにわたって流れる奥入瀬渓流には、いくつもの滝が落ちる清流が見どころだが、木々の新緑のまぶしさにも心を奪われる。
さらに、さまざまな種類の苔が独特の景観をつくりだしている。苔は梅雨のシーズンがいちばん美しいと言われる。雨に濡れ、水滴がキラキラと輝く様子は神秘的だ。雨の多い梅雨がつくりだす大自然の芸術である。
そんな奥入瀬の緑の中に佇むのが蔦温泉旅館である。大正時代に建てられた本館の玄関は、鄙びたなかにも威風堂々とした風格が漂っている。
玄関を入ると、昔ながらの畳敷きの帳場。木造の床や柱などはピカピカに磨かれており、長い間大事にされてきたのがわかる。建物そのものがまるで骨董品のように美しく、歴史の深さを物語っている。鉄筋コンクリートの豪華な建物では醸し出せない木のぬくもりに、気持ちがほっこりとなる。
■足元湧出泉が3つも!
1147年から絶えることなく湧き出しているという温泉は、男女入れ替え制の「久安の湯」と男女別の「泉響の湯」の2つの浴室に分かれる。いずれも足元湧出泉だ。つまり、湯が湧き出している源泉の上に直接湯船がつくられているので、生まれたての新鮮な湯を楽しめる。
泉温が44~45℃という適温だからこそできる贅沢な温泉の入り方だ。自然の絶妙なバランスがつくりだした「奇跡の湯」だといえるだろう。そんな大地の恵みが敷地内に3つもあるのだからすごい。
本館の旧源泉を利用した「久安の湯」は、ブナの木をふんだんに使用した総木造の湯小屋が見事。15人くらいは入れそうな湯船の底板からぷくぷくと透明な湯が湧き出し、大量に湯船の外へとあふれだしていく。
湯は無色透明、無味無臭。一見、個性に乏しく感じるが、とてもやわらかいのが最大の特徴。湯と肌の境目がわからなくなるほど、体をやさしく包み込んでくれる湯だ。
一緒に入浴していたお年寄りは、木造の床にゴロンと横になったいた。浴室で横になるのは本来マナー違反だが、東北や九州の温泉の一部ではよく見られる光景だ。私も入浴客が途切れたのを確認してから、あおむけにごろりと横たわった。
ブナの木のぬくもりが肌にやさしい。湯船からあふれだした湯が、頭や背中の下をなめるように流れていく。あまりの気持ちよさに、目を閉じながら「極楽、極楽」とつぶやいてしまった。
「露天風呂がないと満足できない」という人もいるかもしれないが、「露天はなくてもいい」と思わせるほどの上質の湯である。しかも梅雨の季節は、内湯のほうが過ごしやすいだろう。
■蛍と星空が魅せる自然の芸術
6月から7月にかけて、蔦温泉にはもうひとつの楽しみがある。入浴と夕食を終えると、仲居さんが「庭でホタル鑑賞ができますよ」と教えてくれた。少し林の中に入っただけなのに、黄色い温かな光を放つホタルの姿が何十匹も確認できた。
そして、ふと空を見上げると、満天の星。都会ではけっして体験できない光の芸術は、今もまだ強烈にまぶたに焼き付いている。
蔦温泉をこよなく愛した作家の大町桂月は、晩年は本籍を蔦温泉に移し、この地で生涯を終えたという。その気持ちが少しわかるような気がした。