日本語には他言語に翻訳しにくい繊細な感覚を持つ言葉が多い。その筆頭格に入るのが「粋」、ではないだろうか。他言語どころか日本語でもどう解釈し、説明してよいのか難しくて頭を抱えるばかりだ。対義語の「野暮」はまだ分かり易いとは言え、これとて明確な基準があるわけではない。漢字たった一文字の言葉が、意を尽くして説明をしようとすると大変な文字数になる。これこそ、何とも野暮な話ではあるまいか。
野暮を承知で説明するなら、何かの行為をするに当たって、さり気なく、人に不快感を与えるでも恩着せがましくするでもなく、綺麗に終わらせること、とでも言おうか。「粋」の解釈もさることながら、この感覚はかつての「江戸」での感覚であり、同様のものが上方では「伊達」となる。また、江戸には「粋」の中に含まれると考えてもよい「いなせ」という言葉がある。これは、江戸湾で揚がった「鯔(ぼら)」という魚に由来することがわかっている。ボラになる手前の「いな」の背に似た髷の形が流行したことが語源となり、「粋で鯔背な若者」の登場となった。
「粋」は、精神である行動であるため、こうした例示しやすい形式がない。現代で、最も近い言葉を探すとすれば「美意識に基づく行動」だろうか。そのためであれば、やせ我慢も必要になる。ところが、面白いのは、やせ我慢で想い浮かべる「武士は喰わねど高楊枝」とは似て非なるものだ、ということだ。
「粋」が持つ最大の特徴の一つは、「町人が生み出した文化」だということだ。したがって、先の武士のやせ我慢と同様に考えることはできないのである。武士はいかに零落しようが、殿様や使用人の手前もあり、見栄を張らなくてはならない局面がある。そのために、裏ではこっそり札差などの裕福な町人から借金をし、場合によっては「傘貼り」や「楊枝削り」などの内職に憂き身をやつしてでも、武士としての対面を保つことになる。身分が低いどころか、そもそもない町人には、守るべき体面がない。見栄を張っても、半身で2万円ほどの初鰹を求めて、仲間を呼んで酒を呑み、後でおかみさんに絞られる程度のことだ。
これは私の勝手な言い分だが、「貧乏は恥ずかしくないが、貧乏くさいのはみっともない」と冗談で喋ることがある。私には身分も体面もなく、そうしたものに縛られない分、精神的には少しは自由なのかもしれない。
歴史を遡って考えると、経済的に、あるいは社会的には下に置かれていても、精神的には武士よりも自由でいられた町人だからこそ、「粋」を行動に移せたのだとも考えられる。しかし、怖いのは「粋」と「野暮」は紙の裏表のようなもので、粋も過ぎれば野暮になる。そのギリギリを見極めるところに、江戸っ子たちの無鉄砲さと遊びごころがあったのかもしれない。
嘘か真かはさておき、こんな話がある。ある金持ちの旦那が、贔屓の太鼓持ちを連れ、一夜の遊びに興じた。料理屋で芸者を揚げて威勢よく騒ぎ、興が乗った旦那は、真冬のさなかに庭の池の鯉を捕まえろ、と太鼓持ちに無理難題を言う。ここで一瞬でもたじろぎや戸惑いを見せたら旦那はもうこの太鼓持ちは呼ぶまい。贔屓の旦那で、久しぶりの大座敷だからと、一張羅の着物で来たのに…との気持ちを隠しながら、陽気に池へ飛び込んで、震えながら鯉とよろしく格闘を見せ、座敷を盛り上げ、笑わせる。水浸しで泥だらけになった様子を見計らい、料理屋の仲居が裏へ案内すると、熱い湯が立ててあり、ゆっくり温まり汚れを落として着替えようとすると、水浸しの着物の代わりに、何倍もする高価な仕立て下ろしの着物から羽織、帯、煙草入れなどの小物まで用意してあったという。
さて、この話をどう読むか。金に飽かせた旦那の自己満足の傲慢と見るか、太鼓持ちの芸人のプロ精神と見るか。あるいは、言葉にはせずとも信頼関係で結ばれた男同士のやり取りと見るか。恐らく、太鼓持ちは結末は予想せずに、今までさんざん贔屓になった旦那のためだ、もうどうにでもなれ、ぐらいの気持ちで池に飛び込んだのだろう。先を読んでいたら、粋でも何でもない。
旦那はたとえ一晩でも雇い主であり、金銭的にも優位だ。手間暇とお金を掛けて、贔屓にしている太鼓持ちがアッと驚く顔を見たかったのだろう。
結局のところ、この話を男同士の「意地の張り合い」と見ることはできないだろうか。片方は金、片方は身体を掛けた意地づくの勝負である。しかも、面白いことに、勝敗はいつも同じで、旦那が勝ち、太鼓持ちが負けと決まっている。自分の生活を支えてくれている旦那に決定的に勝利するわけには行かないのだ。この構造を互いに知りつつ、いい歳をして知らん顔でバカ騒ぎをしている。会社の接待と同じではないか、との声がありそうだ。一見、そう思えなくもないが、決定的な違いは仕事ではなく刹那的な感覚の遊びで結ばれた人間関係、ということだ。だからこそ、仕事とは別の、あるいはそれ以上の信頼関係がなければ成立しない。大人同士の「粋な関係」とは言えないだろうか。