日本には言論の自由が存在するとされてはいるが、実状が違うのは皆さんもご承知の通りだ。昨年亡くなった作家の曽野綾子(1931~2025)さんが、「日本には言論の自由などない」という主旨のエッセイを新聞に書かれたことがあった。演劇批評の分野でもそれを痛切に感じていた私は、不躾にもお手紙を差し上げ、スケールは違うが同様の立場の人間がいることをお知らせしたところ、「私はこの差別と何十年も闘ってきた」とのご丁寧なお返事を頂戴したことがある。
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いくら相手のためだと言っても言い訳にしか取られず、ハッキリと物を言うことが憚られる空気が色濃い昨今、またしても妙な「言葉狩り」が始まっている。野球で使われる「殺」「死」「刺す」「軍」「生還」などの言葉のイメージが好ましくないため、同様の意味を持つソフトな言い方に変えてはどうか、との話だ。
それならいっそ、戦時中のように、ストライクは「よし」、ボールは「だめ」タイムは「ちょっと待て」とでもしたらどうなのだろうか。上っ面だけしか見ずに、本質を追求しない現代の風潮が生んだくだらぬ議論にしか見えない。
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野球に関する「言い換え」の問題が、どこからどう始まったのかは定かではないが、いい大人が無駄な知恵を絞るほどの問題ではなく、過剰な自主規制以前に、日本人の読解力や言語能力がそこまで落ちているという基本的な問題の本質に、まず気付くべきだろう。
中学生程度の日本語能力を持っていれば、ダブルヘッダー、すなわち一度に二つの「アウト」を取る「併殺」という言葉に、一般的な意味での「殺意」などないことは一目瞭然のはずだ。「巨人軍」の「軍」が軍隊を想起させるなどは、もはや言い掛かりにも等しい話だ。ならばなぜ、金属バットは殺人の凶器にも成り得るから危険だと言わないのだろうか。
昨今の日本人は、「本を読まない」を超えてしまい「本を読めない」段階に達している大人が少なくないと聞く。若い世代の中には、マンガの活字さえ読むのが面倒だとの風潮もあると聞いた。本を読まないとボキャブラリーが少なくなるのはもちろん、イメージの幅も狭くなる。想像的な精神の豊かさが削がれるのだ。
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この野球用語を巡る突拍子もない議論がいかにも片手落ちなのは、野球以外にも使われる「囲碁」「将棋」の「あの石(駒)は死んでいる」などの用例をどう考え、言い換えが必要なのかどうかなど、周囲の状況や歴史的な変遷を考えていないことでも明白だ。今、私はあえて「片手落ち」と書いた。これも差別用語の一つになっているようだが、通常の判断能力を持っていれば、私が差別の意図など微塵もなく使っていることがわかるはずだ。そもそも「片手落ち」は「片手」が落ちているのではなく、「片方」が手落ちなのであって、単語を区切る場所を間違えているだけの話だ。
こうしたことどもの一部だけを取り上げて何かと騒ぐ風潮は、声の大きな人たちが世の中を狭くしているだけではないのか。
どの分野でも数え切れないほどのハラスメントがあり、うっかり反論でもしようものなら、「これだから昭和生まれは」と一括りにされる。時代の変化と共に人々の感情が移ろうことなど、こちらも承知はしている。ただ、それがいかにも過剰ではないのか、ということだ。いろいろな事柄に気を遣わなければ生きにくい時代なのも承知だし、年齢を重ねた分、感性の鋭敏さやしなやかさを失っているのも理解している。しかし、ある問題を考える時に、方向性や根拠となるものが、いかにも浅薄ではないのか。問題はここにあるのだ。
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日常会話ではなく、思考から生まれる自分の「ことば」、これは「意見」と置き換えてもよいかもしれないが、そうしたものを持たない人々が増えすぎたのだ。パソコンやスマホを見れば、日常生活の大概の不明を知ることができる。「聞くは一時の恥」のことわざも、もはや死語に近いだろう。
インターネットの世界では匿名性に慣れてしまい、感情的にぶつけられる言葉を放り投げる。論理的に反論ないしは訂正できる「ことば」を持たず、面倒だと感じる。そうなったら、違う画面に移ればよいだけの話だと、短絡的な思考に走る。いろいろなところで起きている問題の本質はここにある。その場しのぎの逃げを打ってばかりいても、根本的な問題は何一つ解決しない。困難だとは承知していても、それに立ち向かうのが年長者の役目ではないのだろうか。
自分の事を棚に上げて言うのではない。この時代の中で、どのような「ことば」を持って人と接するのか、との大きな問いを、あちこちで見掛ける。直接私に向けられたものではないものもあるが、この時代に生きている以上、逃げるわけには行かない。何千冊の本を読み、先人の金言を知っても、それを自分の物にできるかどうかをも、併せて問われているような気がしてならない。














