まずは、2009年に日本経営合理化協会主催の店舗見学会でお店を貸し切り、森田さんにお話をいただきました時のおさらいをしましょう。
東京で修行をしていた森田弥助さんは昭和32年暮れ、石川県小松市の米八からスカウトされました。当時精進料理店だった米八はすしコーナーの新設に際して腕のいい江戸前寿司の職人を探しており、店主の親戚と面識があった森田さんに白羽の矢が立ったそうです。
森田さんは「地方でのんびり一年過ごすのも悪くないな」という思いもあり、米八で寿司を握り始めました。しかし、のんびりどころか、銀座の一流店で技を磨いた森田さんの寿司はたちまち評判になり、地元の名士が集りました。
贔屓客の多くの経済人は当時隆盛を極めていた繊維関連の経営者だった。そんな旦那衆は、茶道や謡をたしなみ、食文化や器にも深い知識を有しており、銀座で豪遊する社長たちとは一味も二味も異なります。その粋人と交わる森田さんには「俺は凄いところへ来たな。一生どころか、もっと長くこの地へ留まり勉強させてもらおう」という心が芽生えたそうです。
その後、小松で鮨を握り続けるも、平成9年に転機がやってきました。石川繊維協会会長を長年務めていた贔屓客である山本康二氏が逝去したのをきっかけに、自らも66歳を迎えており、寿司職人の人生に区切りをつけ引退したのです。
「今まで握っていた鮨は特別なお客様に向き合っていただけの仕事であった。一般のお客様にもっとおいしく味わってもらえる寿司を作らねばならない。これこそ本当の寿司といえるものを!」
森田さんは胸の奥底からわき上がったこの思いに身震いしたそうです。
自分を産んでくれた両親はもとより、食材の魚にも感謝するようになったそうです。そして、その思いをひとつひとつにこめるようになりました。弥助さんの寿司を食べて感動するのはこの思いに他ならならないでしょう。
森田さんは曰く、「寿司の味は握る人の心から出てくる」と。
悲喜こもごもの人生経験を経て、「感謝」を仕事の糧とするようになった森田さんはその掌(たなごころ)で人への慈しみを握っています。
「今日は幸せな気持ちにしていただきました」というお客様の言葉は、「味わう人に喜んで欲しい」と強く思う森田さんの真心、そして、もっと喜んでもらうために日々研鑽する謙虚な森田さんの心があります。
79歳になった今(セミナー当時)も、評判の寿司屋があれば、飛んでゆき、若者であったとしても学ぶと言います。「明日はどんな寿司が作れるか」常に考え、常に前を見据えているのです。
予約している旨を『金澤茶屋』のロビーに伝え、受け付けして順番を待ちます。ロビーで待ち合わせは以前と同じようなシステムです。
ラジャーということで、予約して帰りました。