■さまざまな温泉を飲んで味わう
温泉を楽しむとき、私が必ず欠かさない行動のひとつが、温泉を飲むこと。いわゆる「飲泉」だ。
一口に温泉といっても、その味は泉質によってさまざま。塩味、たまご味、炭酸味、レモン味、鉄が錆びたような味など、まったく同じ味をした温泉は世の中に二つと存在しない。これもまた温泉の奥深いところで、湯は肌で感じるだけでなく、味覚でも楽しめるのだ。だから、私は温泉が湧き出しているのを見つけたら、思わず湯を手にすくって口に運びたくなる。
諏訪湖畔の北、下諏訪にある諏訪大社の「下社秋宮」を訪ねたときも、温泉を飲みたい衝動に駆られた。
パワースポットとしても知られる秋宮の周辺は、古くから門前町、宿場町として栄えていたこともあり、かつての本陣などの建物や歴史情緒あふれる旅館が今も軒を連ね、雅な雰囲気が漂っている。秋宮の一帯は温泉が豊富なことでも知られ、温泉旅館だけでなく、共同浴場も多数存在する。下諏訪は、温泉街としての顔ももっているのだ。
秋宮の境内にも温泉に触れられるスポットがある。それが龍の口から温泉が流れ落ちている「御神湯」。温泉の手水舎だ。手を伸ばすのを一瞬ためらうほどの熱湯からは、もくもくと湯気が立ちのぼっている。
火傷をしないように、おそるおそる手と口を清めたあと、おもむろに手にすくった温泉を少し口に含んでみた。本来、飲用ではないので自己責任ではあるが、やはり温泉を前にして「味わいたい」という衝動を抑えきれなくなってしまった。さっぱりとしてクセのない湯は、ほぼ無味無臭。クリアな喉越しが印象的だ。
■武田信玄の隠し湯
秋宮を参拝したあとは、下社のもう片方である「春宮」の近くにある秘湯まで足を延ばすのも一興だ。その名も、毒沢鉱泉「神乃湯」。
住宅街が続く坂道を登りきったところにひっそりと佇む神乃湯は、黒を基調とした和風モダンの建物が洗練された印象を与える旅館で、近年は女性にも人気があるというのもうなずける。
「毒沢鉱泉」という温泉名は、一度聞いたら忘れられないインパクトをもつが、由来は「温泉成分が濃いために沢の魚が死んでしまったから」「金鉱採掘のゲガ人の治療に利用していた武田信玄が効能豊かな温泉に人を近付けないために名づけた」など諸説あるらしい。
戦前には、売薬許可を得て、温泉を医薬品として販売していたという事実からも、その効能のほどがわかる。昔から計り知れないパワーをもつ温泉だったのはたしかだろう。
■赤茶色の濁り湯
湯船には赤茶色の濁った湯が満たされている。見た目は、いかにも毒々しい。しかし、温泉成分も豊富に含まれているのだろう、短時間で体の芯から温まり、汗が噴き出してくる。見かけは毒でも、入浴すれば極楽だ。
浴室の一角には、泉温2℃の冷泉を飲めるスペースがあるので、いつものように源泉を口に含んでみた。飲泉ができるのは、湯が新鮮で、循環や殺菌をしていない証拠。飲泉ができる温泉は、ほぼ間違いなくいい温泉だ。
ところが、口に入れた瞬間、とっさに湯を吐き出した。あまりにまずいのだ。レモンのような強烈な酸味と、鉄が錆びたような不快な味が同時に襲う。大好きな温泉を吐き出したのは、これがはじめてだ……。
「神乃湯」を吐き出しては罰があたると思い直し、もう一度チャレンジするが、やはり強烈な味覚。「良薬口に苦し」とは、こういうことを言うのだろう。「神様の湯を飲めば、きっと御利益があるに違いない」と自分に言い聞かせ、半ば強制的にゴクリと胃に流し込んだのだった。