■湯の花にクレーム!?
この温泉、汚れている!──。ある温泉に入浴していたら、40代くらいの男性グループが騒ぎ出した。どうやら温泉の中に含まれる赤茶色の湯の花を、人間の垢と勘違いしたようだ。このときは、私が「それは湯の花ですよ」と言うと、彼らは納得してくれたが、実際には「温泉が汚い」と宿にクレームを言う客もいる。
だから、温泉宿の中には、湯の花をフィルターで取り除いたり、循環ろ過したりして、「キレイな温泉」にしてしまうケースもある。温泉ファンの立場からいえば、「もったいない」のひと言に尽きる。
湯の花が舞う温泉は、本物の温泉である。温泉の成分が濃い証拠だ。だから、湯の花に出合うと私は「いい温泉だなあ」と気持ちもたかぶる。なかでも思い出深いのが、長野県北部、日本百名山のひとつである「雨飾山」の麓に湯けむりを上げる小谷(おたり)温泉だ。
日本有数の豪雪地帯である山あいに湧く小さな温泉地だが、歴史は古い。開湯は1555年で、武田氏の家臣・岡田甚一郎により発見されたといわれる。その後は、農閑期の湯治場としてにぎわってきた。
■江戸時代からの歴史ある建物
現在は江戸時代から続く「大湯元山田旅館」の一軒のみである。3階建ての鄙びた木造建築が風情漂う老舗宿。本館、別館など6棟が国の登録有形文化財で、本館は江戸時代の建築だ。これらの建物を見学するだけでも十分に価値がある。しかも、昔ながらの自炊施設を備えている。東北や九州以外の自炊宿というのは、今では貴重な存在といえる。
小谷温泉は、明治時代にドイツで行われた温泉博覧会で、日本の「4大温泉地」のひとつとして紹介されたという。なんと残りの3つは、別府温泉(大分県)、草津温泉(群馬県)、登別温泉(北海道)という大温泉地。かつては、日本を代表する温泉地のひとつであったことがうかがわれる。
この博覧会に紹介された源泉が山田旅館から湧いている湯で、今もなお当時と同じ湯船に注がれている。この湯船がある浴室は、タイル張りのレトロな雰囲気で、湯船は6人ほどが浸かれるサイズ。すでに常連らしき3人の先客が湯浴みを楽しんでいた。
源泉は2メートルくらいの高さから打たせ湯のように落ち、大量にかけ流しにされている。ドカドカという音が浴室に響き渡る。
黄色をおびた湯は、ぬるっとした肌触りが特徴で、飲泉すると、炭酸味と鉄味がしゅわっと口の中に広がる。赤茶色の湯の花も無数に舞っており、温泉成分の濃厚さを感じずにはいられない。
■25年の歳月がつくり出したもの
大量に源泉があふれ出していく湯船の中でまどろんでいると、浴室の片隅に、赤茶色をした丸太のような物体が目に入った。長さ1.5メートル、厚さ30センチほどあるだろうか。最初は、休憩用のベンチかと思ったが、それにしてはいびつな形状である。
しげしげと丸太らしきものを見つめていると、常連のお爺さんが口を開いた。「それは湯の花(析出物)のかたまりだよ。打たせ湯の湯口から垂れ下がるように堆積した湯の花が、自身の重みに耐えきれなくなって落ちたものだ」。
なんと25年もの年月をかけて堆積したという。湯の花の断面は、大木の年輪のようになっており、歴史の長さを物語っていた。数々の湯の花を見てきたが、これほどの代物には、めったに出合えない。天地がつくり出した「美術品」を鑑賞しながら温泉に浸かれるのも、山田旅館の魅力である。
外にある露天風呂も人気だ。2014年、薬師堂の建物を利用して昔あった外湯を再建。男女別の湯船は周囲の山々を一望できる絶景温泉である(冬期閉鎖)。せっかくなら宿泊して、内湯と露天の両方を満喫したい。