銀行融資への過剰依存の危険
日本の戦前の財閥発展史を見ていくと、第一次世界大戦後の景気の波の中で、独占的な地歩を固めていく三井、三菱、住友の三大財閥と、それを追いかけるライバルたちとの間に大きな差が開いていくことがわかる。
要因の一つは前回指摘したように、景気の波に対応できるだけの人的、組織的な管理能力(トップマネジメント)体制の格差だった。事業拡大に向けた組織体制の整わないまま、ひたすら膨張を模索することの危うさだ。
さらに指摘しなければならないのは、有望部門への資金調達、投資の構図の差だ。第一次大戦後の不況と1927年(昭和2年)に襲った金融恐慌の荒波に耐えきれず競争から脱落していった第二グループは、共通して銀行の融資に過度に依存し無理を重ねて膨張政策をとっていた。
この連載で見てきたように、三大商社に一時は並びかけた鉄鋼取引に強い鈴木商店は、植民地向け国策銀行でもある台湾銀行の融資が成長の後ろ盾だった。前回見た古河商事の場合は、身内の古河銀行の融資に頼り切って急成長を続けていた。しかし、銀行というものは、好景気の状況では多少のリスクをおかしてでも企業に湯水のごとく事業資金を貸し込むが、景気が冷え込んでくると、資金の回収に走る。1980年代末のバブル景気がはじけた時には、企業経営者なら誰でも嫌というほど痛い目にあったはずだ。
鈴木商店の場合は、台湾銀行が新規融資を止めると、他行も貸金の回収に動きあっという間に破綻に追い込まれた。
蓄積された余裕資金を低利で注ぎ込む
金融恐慌の波は、三大財閥にも同じように襲いかかったはずである。ではなぜ彼らは生き残り、さらに発展を続けることができたのか。それは事業資金の調達コスト低減化だった。鈴木商店など銀行依存度の高い会社群は不況期に入ると金利負担が大きくなる。いったん逆風が吹くと資金繰りが厳しいのでまた借りるという悪循環におちいる。一方で三大財閥はというと、この不景気の期間に借入金は減っている。金利負担が減る。同業種のライバル会社が淘汰されていくので価格競争は減り儲けが増えていくという好循環となる。
金融恐慌前後に、大手財閥は内部での株式の持ち合いを進める。それは、グループ内企業が水平的に株式を相互に持ち合う関係ではなく、出資元である財閥本社(持株会社)を頂点とするピラミッド構図の持株システムだ。
このシステムでは、財閥内の子会社から株式配当金の形で一方的に金が本社に吸い上げられる。財閥本社は、この潤沢な余裕資金を原資として司令塔的に小会社への投資を按配する。しかも内部での配当金は比較的安く抑えられていた。場合によっては、設立間もない小会社からは配当金を取らない場合もあり、小会社は成長するまで本社から無利子の補助金を受けているようなもので、経営の自由度は上がる。
他の企業が市場で借り入れたり、株式で調達したりするより低コストの資金を入手できる。これが戦前の財閥が集中的に富を蓄積するからくりだ。
寡占と国家へ影響力拡大
ある種いびつなシステムで経済力を蓄えた“勝ち組“の三大財閥は、余剰資金を、膨張政策をとる昭和の国家と軍部からあてにされる。その資金は電力公債の引き受けや、植民地政策に伴う東洋拓殖会社や南満州鉄道(満鉄)への投資、軍需産業へと振り向けられ、国家社会に多大な影響力を持つに至った。
国家と一体となった強大な資本は、弱小ライバル会社を飲み込み、財閥による寡占状態を生み出す弊害もあらわになってくる。
そのことが、敗戦後、GHQ(連合軍最高司令官総司令部)による財閥解体、経済民主化へとつながっていく。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』菊地浩之著 平凡社新書
『財閥の時代』武田晴人著 角川ソフィア文庫
『財閥のマネジメント史』武藤泰明著 日本経済新聞出版