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挑戦の決断(32) 売れ筋を生み出せ(都市国家ヴェネツィアⅡ)

指導者たる者かくあるべし

 国家危機を救ったガラス
 ヴェネツィアを代表する工芸品と言えば、ガラス製品だろう。ヴェネツィア・ガラス。現地に行ったことはないが、若いころに箱根の美術館で収集品と出会い、その透明感と色合い、複雑で精緻な文様に度肝を抜かれた記憶がある。
 前回、ヴェネツィアの末路は新大陸発見で大転換した世界の交易構図についていけなかったことによる、と書いた。それでも16世紀から17世紀にかけて、苦難の時代に直面した海洋都市国家の経済を救ったのが、このガラス製品だったのである。ヴェネツィアが最後の光を放ったガラス製品のデザインは今に引き継がれ、世界の人々を魅了し続けている。
 15世紀は、ヨーロッパ世界にとって歴史の大きな転換点となった。スペインによる新大陸の発見(1492年)、ポルトガルによる喜望峰経由でのインド航路の開拓(1498)で地中海交易の位相は大きく下がる。また、オリエント地方ではオスマントルコ帝国が東ローマ帝国を滅ぼし地中海世界に本格進入してきた。トルコとの地中海覇権争いに戦費を注ぎ込むヴェネツィアだったが、東西交易から得る利益は先細りするばかりだった。
 「優勢な海運、海軍力による中継貿易では従来通りの富は手に入らない」と気づいたヴェネツィア人たちは、東と西の商品を取り次ぐだけでなく、自ら商品価値の高い製品を生み出し、売り込もうと考えた。目をつけたのがガラス製品だった。
 
 付加価値と機密防衛
 ヴェネツィアでは、東西交易の中で東方世界からガラス製造のノウハウを早くから学んでいた。当初は製品を東から西に運ぶことで利益を上げていたが、自ら製造した方が大きな儲けを得られることに気づいたのは早かった。国内各地に散らばっていたガラス工房を、ヴェネツィア本島から1.5キロ沖合に浮かぶムラーノ島に集中移住させたのが1291年のこと。
 ガラス原料や燃料を自国で産出しないヴェネツィアとしては、製造ノウハウが流出すれば、原料・燃料が豊富な国に主導権を持っていかれる。技術を厳重に管理する必要があった。そのための孤島への移住政策であり、職人から家族、取引業者までを島内に閉じ込める政令を繰り返し出す。職人たちの集住は職人相互を刺激し合い技術力が格段に向上する相乗効果も生んだ。
 ヴェネツィアが経済危機に見舞われた15世紀末から16世紀にかけて、ヨーロッパ各地は宮廷文化が花開き、シャンデリアやステンドグラス、ガラス食器が飛ぶように売れた。これに合わせるように、ムラーノ島では、次々とガラス製造の技術革新が起きた。高い透明度のクリスタル技術、色付きガラス器、さらに紙のようだとたとえられるほどに薄くグラスを吹く特殊技術など。また、ヴェネツィア・ガラスの代名詞ともなっているレース模様を閉じ込めた器など、他の産地の追随を許さない高度な技術に支えられた製品は、各国の王室、貴族のあこがれの的となる。
 製品に高い付加価値をつけて業界をリードし、高度な技術を徹底的に機密防衛する。今にもつながる製造業の原点は、ヴェネツィアから生まれた。
 
 時代に寄り添う柔軟思考
 地中海の交易覇権を失った都市国家はライバルでは作れない高品質の独自製品による生き残りへと戦略を大胆に切り替えた。
 この戦略転換の具体化は、ガラスにとどまらない。ポルトガル、スペインなど新時代を切り開きつつある国々が取り扱わない製品を独自に生産し市場を開拓する。例えば、両国の交易品リストから漏れ落ちた毛織物も製造工場を建てて商品化する。絹製品も単なる反物ではなく、精巧なレース編みに加工し付加価値を飛躍的に高める。
 極め付けは印刷業の振興だ。1439年にドイツのグーテンベルクが考案した活版印刷は、書物の歴史を変えた。一冊ずつ筆写で広めるしかなかった書籍は、活字を組むことで誤写なく大量に印刷する時代になったのだ。ヴェネツィアの資本家たちはいち早くその将来性に目をつける。16世紀にはヴェネツィアに50軒の印刷・出版業者が出現した。当初は聖書や古典の印刷に従事していた。しかし時代は自由を謳歌するルネッサンス運動の勃興期だ。お堅い文語の書籍だけでなく、印刷容易な活版の登場は、地方の口語による小説、詩歌、戯曲の隆盛を呼ぶ。印刷出版は花形産業となった。
 当時、ヴェネツィアの印刷工場から生み出される書籍は、同じくイタリアン・ルネッサンスを担ったフィレンチェ、ミラノ、ローマの出版点数を足し合わせた三倍にも上ったという数字も残っている。
 潟の上に築かれた小さな都市国家は、交易都市から産業都市、そして文化都市へとしなやかに変貌を続ける。それを可能にしたのは、この都市が発足時から権威にとらわれない共和制国家として発展を続け、商人たちが自由に時代の変化に寄り添ってきたことにある。
 同じく資源のない海洋商業国家である日本。したたかで、しなやかなヴェネツィア人の戦略が参考にならないはずはない。
 
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
 
 
 
※参考文献
『ヴェネツィア史』クリスチャン・ベック著 仙北谷茅戸訳 文庫クセジュ
『ヴェネツィア 美の都の一千年』宮下規久朗著 岩波新書

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