ままならない米価統制
農民の農地定着、御用商人の力を借りて米の流通量を制御するなど、さまざまな政策で米相場の安定に取り組んできた8代将軍吉宗だったが、享保17年(1732年)の凶作には頭を抱えた。米相場の制御は利かず、米価が暴騰したのだ。財政の安定のために米価の吊り上げに取り組んでいた吉宗も米価高騰を喜ぶわけにはいかない。出まわる米が半減する危機に直面する。
天候は順調で豊作雨が期待されたこの年の作況だったが、夏になると雲霞(うんか)が大量発生する。江戸時代の各将軍の治世を記録した『徳川実記』によると、四国の伊予松山藩では、稲作は壊滅状態となるなど、全国の餓死者は96万9900人を数えた。米相場は一気に4倍を超えた。治安上の危機でもある。
幕府は、御用商人に買い占めを命じていた米を放出させ、幕府の米蔵も開いた。今年の政府の備蓄米放出と同じことが起きた。
ところがである。翌享保18年は逆に大豊作となり、市場に米はあふれ米相場は暴落する。米価統制は一筋縄では行かない。
米の公定価格を設定
困り果てた幕府は、享保20年に、米商人にお触れを出している。「江戸では金一両につき米一石四斗以下、大阪では、米一石を銀四十二匁(もんめ)以上で買い受けなければならない」と命じた。違反者には罰則が課せられた。幕府が米の公定価格を設定したことになる。一見合理的な政策だが、貨幣経済が定着し始めたこの時代に、裏取引を取り締まることなどできない。「米商いは需給で決まる」。大坂の米商人の常識だった。商人の方が資本主義経済原則に忠実なのだ。経験に基づく経済運用に成熟している。
このお触れ、一年もたたずたち消えとなった。武士階層の教育の基本は、すでにカビの生えた儒教(朱子学)の行動倫理規範だった。その発想では、「1円でも安く仕入れ、1円でも高く売る」「金を貸したら、金利を得る」という商人の行動は、卑しいこととして忌避されている。市場経済が成熟しつつある中で、政治が経済実態に追いついていなかった。幕府も諸藩の大名も、商人から莫大な財政の支援を受けていながら、金利支払いに難くせをつけるほどだった。
吉宗の先見性
そうした時代にあって、米相場の安定に商人を介在させて需給調整を図る吉宗は経済実態に則していたとも言える。紀州藩主時代に商人を利用して藩財政を立て直した経験が、それまでの朱子学倫理を振りかざす歴代の将軍とは一味、違った。また、経済政策の失敗を、実態に合わせて修正する柔軟性を備えていた。
例えば、米相場を含めて物価の安定のためには、貨幣の質が重要だと考えた彼は、治世初期に金貨の純度を高める改鋳を行った。しかし、これは失敗に終わる。商人たちは、取引で手に入れた新貨幣を蔵に溜め込み市中に出回らなかった。「悪貨は良貨を駆逐する」という貨幣経済の原則だ。吉宗がそんな言葉を知っていたわけもないのだが、金貨の流通量を増やすため、質を落として再改鋳し、デフレを防いだ。
また、吉宗は、形式的な朱子学論理が、実際の社会現象に対応できないことを痛感し、実学を普及させる努力もしている。
さて、令和の米騒動。政府は、鳴り物入りで政府備蓄米を低価格で放出し、「米相場全体が、引きずられて下がる」と宣伝した。しかし、米価は高止まりしたままだ。流通量そのものが不足しているからだ。それが流通過程の問題によるものか、あるいは生産量自体が不足しているのか。実態は未だ、「調査中」なのだ。
政治家諸兄は、経済学をもう一度勉強し直して、実態に合わせた米価対策を練り上げるべきなのだ。新興政党に惨敗した参議院選挙結果を受けて、「SNS選挙に負けた。SNSの活用法をよく勉強しよう」などと、的外れな選挙総括をしている場合ではない。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『日本の歴史16 元禄時代』 児玉幸多著 中公文庫
『日本の歴史17 町人の実力』 奈良本辰也著 中公文庫























