「船中八策」の真実
土佐を脱藩した坂本龍馬が、土佐藩の参政として藩主の山内容堂(やまうち・ようどう)を支えた後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)に語ったという「船中八策」という名の筆記録が伝わっている。徳川幕府が権力を手放して大政奉還し、上下両院の会議を興し、幕府が列強と結んだ不平等条約を改正し、国防のため海軍力を増強するなどの内容で、のちの明治天皇による「五箇条の御誓文」の元となった国のグランドデザインを示したものだとされてきた。
しかし、現在の研究では、筆記録の原本は存在せず、維新後しばらく経って龍馬の英雄伝説が膨らむにつれて創作されたものだとされる。
慶應3年(1867年)5月、京都で山内容堂ら雄藩の藩主が集まって諸侯会議が開かれていた。海援隊に関するトラブルで長崎に足止めされていた龍馬は、翌月、上洛を急ぐ藩の用船の中で後藤にある重大な説得したことは確認されている。「混乱をおさめるために大政奉還を将軍・徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)に決断させるベく藩主から建白させるのが得策」と。龍馬が後藤に託したのは大政奉還の一点だった。
武力倒幕の機を待つ
後藤から大政奉還策を聞いた容堂は、妙案であると受け入れて建白書にしたためて、勤皇か佐幕か、膠着した事態は討幕に向けて大きく動き出す。
龍馬が倒幕同盟締結を取り持った薩摩と長州の外様の大藩二つは、武力倒幕で走りはじめている。しかし、影響力の大きな徳川ゆかりの福井、宇和島、土佐藩は、徳川家を諸侯の一つとして存続させる和解案を模索していた。土佐藩は慎重論を主導している。譜代大名の立場から徳川に弓は引けない。中途半端な立場だった。
そうしている間にも薩摩と長州は、軍備の増強を続ける。幕府も長州征伐では敗北したが、フランス式の近代軍備を着々と整備している。このままでは、激突が起きることが懸念された。
龍馬の目からはまだ、倒幕決戦は時期尚早と見えた。政治的、軍事的に幕府に圧力をかけつつ、徳川に名誉ある撤退を促すことが得策だった。
将軍・慶喜は、2代続いた暗愚将軍とは違い、時代が見えていた。もはや幕府の時代は終わったと観念しているところがあった。彼には幕閣の不満を抑える政治力もある。慶喜の決断にかけた。そして慶喜は10月13日、大政奉還を決意する。
「将軍が大政奉還を受け入れた」との報に接した龍馬は、「偉大な決断だ」と慶喜に感嘆したという。
諸外国の国家制度に精通している龍馬は、直ちに幕府に変わる「新官制」の立案に取り掛かっている。
現実的策士の死がもたらした混乱
龍馬とともに土佐藩を脱藩し、同じく京都で倒幕工作を行っていた中岡慎太郎は、一本気な武力倒幕論者だったが、龍馬は現実的な策士の側面を備えている。
当初、徳川を含めた合議体による政権運営を志していた龍馬だが、江戸で師事した幕府官僚の勝海舟から、「幕府にはもはや統治能力はない」と繰り返し聞かされて武力倒幕の意志を固めるようになる。大政奉還という政治戦略も、元はと言えば勝海舟があたためていたもので、福井藩に仕えた儒学者の横井小楠(よこい・しょうなん)に引き継がれ、龍馬の工作につながる。彼は福井藩へも小楠の意見を聞きに出かけている。広く聞く耳をもち、現実化させる実行力が龍馬にはある。
中岡慎太郎は、「早く倒幕戦争を仕掛けないと時機を失う」とことあるごとに龍馬をけしかけ対立したというが、戦争準備なら、リアリストの龍馬は怠りがなかった。
長崎での逗留を余儀なくされていたころ、彼は無為に時を過ごしてはいなかった。オランダ商人から最新式のライフル銃1,300挺を買い入れて、うち1,000挺を土佐藩に送りつけ、山内容堂の決断を促している。
大政奉還からひと月後、龍馬は、中岡慎太郎とともに京都の宿で何者かに襲われ、絶命する。
やがて日本は、薩長新政府軍が仕掛けた戊辰戦争で大混乱に陥る。龍馬がいれば、無益な戦争をどう避けようとしたか、そして、どんな新国家の青写真を描いたのだろうか、見たかった。
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今回から、時代の転機に国のかたち、組織のかたちを追求し、描いた人たちを追ってみる。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
(参考資料)
『坂本龍馬』飛鳥井雅道著 講談社学術文庫
『日本の歴史 19 開国と攘夷』小西四郎著 中公文庫
『日本の歴史 20 明治維新』井上清著 中公文庫