劉邦の策士、軍師として天下取りに活躍した張良は、太公望が書いたとされる兵法書『三略』に大いに戦略を学んだという。
司馬遷によれば、若き日の張良がなぞの老人からこの書を授けられたと伝えている。
場所と時代は変わって日本の15世紀。戦国武将の北条早雲は、ある日、兵法を学ぼうと、ある坊主から『三略』の講義を受けた。
その冒頭の一節にこうある。
「それ主将の法は、務めて英雄の心を攬(と)り、有功を賞禄し、志を衆に通ず」
(人の上に立つ者は、主要幹部の心を掌握し、功績があった者には相応の報酬を与え、自らの理想を人々に周知徹底させる)
この一節を聞いて早雲は、「もうよい、それで十分だ」と講義を打ち切らせたという。
リーダーの心得は、これに尽きると理解したのだ。なるほどと思い当たり得心する方も多いのではないか。
早雲という一個の風雲児は、「天下を取る要諦は関東にあり」と見て、備中(岡山県)から駿河、伊豆に入り、牛の角に松明をつけての機略で小田原城を落とした男。
国を治めるにはまず領民の心を安んじる必要があるとして、過酷だった前領主による高税を減免し、農民の医療、農地の整備に資金を投入。領民は新領主の徳を慕った。
早雲は「自分たちの国」の意識の芽生えた農民たちを組織して軍団を運用し、従来の武士団のみの軍事を大きく改編した。
早雲は努力を怠らない人だった。「人は、人目にそれと顕わに見えない隠れたところでの努力が大切なのだ」との言葉を残している。
そして、その考え方を「二十一か条の教訓」として若い部下たちに説いた。
「神仏を信じる事」「早起きする事」から始まり、礼儀、生活の全般にわたるが、以下の諸点は時代を超えて通じるものがある。
「刀、衣裳などは、人のようによくしたいと思ってはならぬ。見苦しくなければそれで良い」「懐には常に書を持て」「良友を求めよ。良友とは、学問の友である。悪友を除け。悪友とは、碁、将棋、笛、尺八の友である」
身を飾り遊ぶ閑があれば、学び、心を磨け、ということだ。
後に、後代の北条氏が籠る小田原城を豊臣秀吉軍の一角として攻め開城させた徳川家康は、百日に及ぶ攻囲戦で籠城した北条方の寝返りが一人しか出ず、敗戦後、当主の氏直(うじなお)の高野山落ちに臣下の多くが従ったのを見て、こう評している。
「早雲以来、代々受け継がれてきた方針が正しく行われ、諸士もみな節義を守った」と。
英雄の心を攬(と)り、志は衆に通じたのである。
※参考文献
『司馬遷 史記Ⅲ 支配の力学』徳間書店
『三略』中公文庫BIBL0 S
『名将言行録』岡谷繁実著 講談社学術文庫
『勝つ武将 負ける武将』土門周平著 新人物文庫
※当連載のご感想・ご意見はこちらへ↓