「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は
動かじ」。日本海軍の名将、山本五十六連合艦隊司令長官の語録にある
有名な人材教育論だ。
おそらくその原典は、江戸時代中期、財政破綻した東北・米沢藩を大胆な人材活用による改革で蘇らせた上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)が語った人材管理の原則であろう。
「してみせて、言って聞かせて、させてみる」
鷹山はそれを見事に実践してみせた。
上杉謙信の血を引く上杉家に17歳で養子に入った鷹山が直面したのは、借財が積もりに積もって疲弊した藩の惨状だった。
19歳で領地に入って驚いたのは、無駄の多さだ。山間の僻地にあるわずか十五万石の弱小藩であるにもかかわらず、かつて越後まで治めた百万石大名時代のままの感覚だった。
まず、率先垂範。家計の支出を五分の一に減らし、奥女中は50人から9人に。自らの着物も木綿に限り、食事も一汁二菜を常とした。
藩士たちにも見習わさせて手当を半減し、その分を積み立て負債の返済に当てた。
「出る(支出)を制した」次には、「入る(収入)を量(はか)る」必要がある。殖産興業に取り組む。
和紙の原料のコウゾ、漆器材料のウルシを藩士の庭にも植えさせ、池に鯉を飼わせて農民への模範とした。蚕の飼育をすすめ、荒れた農地の開墾指導に自らも出向く。
さらに、コウゾ、ウルシ、絹を使って製品加工を研究させ、産品に付加価値をつけることを忘れなかった。
ある日、家臣が鷹山に忠告した。「農民たちは、日々の生活に追われております。その上、さらなる労苦を強いるのはいかがか」
「なるほど。それなら智恵がある」と鷹山。
「見るところ、藩士たちは何の用向きもないのに城に出仕して、意味もない文書をいじくっておるではないか。明日から出仕におよばぬ。咎めぬから家で農事に精を出せ」
プライドだけで生きている武士たちが、開墾に出向き、用水路工事に出るようになった。一方で農事に明るい農民を役人に取り立てるなど、「適材適所」の人材配置を徹底させた。
倒産状態の米沢藩が、鷹山の50年の治世でどう変わったかは、語るまでもない。
「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」これも鷹山が残した言葉だ。
さて、冒頭の山本五十六の教育論には続きがある。
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」
至言である。
※参考文献
『代表的日本人』内村鑑三著 岩波文庫
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