戦国武将の武田信玄は、本拠地の甲斐をはじめ領内に堀や天守を備えた仰々しい城をひとつも持たなかった。
生前、信濃、駿河から美濃の一部にまで版図を拡大したが、領内に敵の侵入を許したことは一度もない。
無類の人使いの巧者であったとされ、武田流軍学の書『甲陽軍鑑』には信玄の人材起用に関するエピソードがさまざま書き残されている。
ある時、信玄は軍師の山本勘助を呼んでこう話した。
「わしは決して人を使うのではない。能力を使うのだ。それぞれの能力を殺さぬように人を使わねばならぬ」と。
人を見る時には「信念」を見るのだ、と勘助に諭す。「信念がなければ向上心がない。向上心がないものは研究心がない。研究心がないものは必ず失言をする。失言をするものは言行が一致せず、恥をわきまえない。恥知らずは何をさせても役には立たぬ」
恩賞も功績を重視せよと言う。「功績がないものに恩賞を与えてしまうと、お追従ものが生まれる。こういうものたちは本当に功績のあった忠節の武士をねたんで悪口をいいふらし、恩賞狙いで主君に世辞を言うだけだ」
なるほど、どの組織でも起きがちなことだ。
さらにもうひとつ、信玄の人材活用の原則に「個性」を活かせということがある。同じタイプの部下だけを重用するなという。
「一つの性格の侍を好み、似たような態度、行動のものばかりを使うこと」を戒め、「渋柿も甘柿もそれぞれに役立たせるのが、人の上に立つもののつとめ」だと説く。
そのことを、蹴鞠(けまり)の庭の四隅に植える四種の樹々にたとえる。
「春には桜が花やかで、柳は緑にけぶるがそれも一時、やがて秋になれば紅葉したカエデが夕霧、秋雨の中に散る風情もいい。だが、それらの彩りが何一つ残らず消えうせたあとには、永遠に変わることのない松の緑が、その真価をあらわすのだ」
風流の心も持ち合わせていたらしい。
かと思うと、「三と四を足しても七にしかならないが、三と四を掛ければ十二となるようなものだ」と計算して見せる。
こうして人材を有機的に繋ぐ信玄の組織運用が無敵の騎馬軍団を生み、「風林火山」の旗印を掲げた武田二十四将が縦横に駆け巡る。領民の信頼を得て、城はなくとも領国を守る原動力となった。
「人は石垣、人は城」とはそういうことである。
※参考文献
『甲陽軍鑑』徳間書店
『名将言行録』岡谷繁実著 講談社学術文庫
※当連載のご感想・ご意見はこちらへ↓