信長から毛利攻めへの出陣を命じられた光秀が京都の愛宕山西之坊で参席した連歌は、「天正十年愛宕百韻」として現在まで伝わっている。
時は今あめの下なる五月かな
と光秀が詠んだ冒頭の発句が、秀吉の世となってのちに、謀反(むほん)の動かぬ証拠とされたからである。
「雨が降りしきって、まさに五月雨(さみだれ)の季節だなあ」としか読めない風雅な句がなぜ謀反の証拠なのか。
事件後に秀吉が監修した『惟任(これとう=光秀)退治記』では、この句を、
ときはいま天の下しる五月かな
と記載している。
光秀は美濃の大名、土岐(とき)氏の流れで、「とき」は時と土岐の掛け言葉で光秀のこと。「天の下しる」とは「天下を統治する」という意味になる。
「光秀が今こそ天下を取らんとする五月である」と読み替えられたのである。
クーデターをまさに起こそうとしている首謀者が、衆人環視の連歌の会で、そんな軽卒な句を残すはずもないが、「あめの下なる」だとしても、この句に強い光秀の意思が秘められていることは間違いない。
土岐氏は、戦国の波乱の中で斎藤道三に美濃を追われた。その末裔として一族の再興を担う光秀の自負と決意である。
表面的には毛利との戦いでの戦勝にかける思いであるが、その後の事態の推移をみると、この時、光秀は打倒信長を決意していたことは間違いない。
連歌会に先立って光秀は社頭で二度、三度おみくじを引いたとも伝えられている。
さらに、当代一の連歌師である紹巴(じょうは)も参加し句を詠み継いだこの日の百韻の終句は、光秀の息子の光慶(みつよし)がこう結んでいる。
国々は猶(なお)のどかなるころ
(国々ものどかに治まる世を目指したい)
敵の多い信長では天下は治まらない。親の決意に子が応える。あらかじめ光秀が結句を指示したであろうから、親子ともども揺るがぬ決心がかい間見える。
決意したからには、決起後につく味方の算段と、朝廷を取り込む首尾がないわけはない。周到に計画されたクーデターであったのだ。
亀山に戻った光秀は六月一日夕、一万三千の兵を率いて城を出発する。奇妙にも摂津への近道は通らず西京へ向けて山を越えた。
兵には「京で信長殿の閲兵がある」と伝え、不審に思う者はいなかった。
(この項、次回に続く)