日露戦争の終結に向けての協議は、仲介の労をとる米国のポーツマスで開かれることになった。ロシア全権大使ウイッテは、米国に向かう六日間の船旅の間、交渉に臨む対応を船室で一人になって考えていた。
「皇帝からの指示は、領土、賠償の要求に応じるな」だが、日本がその要求を持ち出すのは間違いない。長丁場のタフな交渉になる。さて、どうしたものか。
ニューヨークで下船するまでに、彼が定めた原則はシンプルだった。
「何があっても、我々が講和を望むような態度は見せない」。強硬姿勢で協議に臨み、継戦をちらつかせて日本側の要求をことごとく拒否するまでだ。
次の原則は、それを補完するために米国の世論を味方につけること。親日的とされるルーズベルト米大統領だが、交渉が決裂模様になれば、「日本側の無理難題で平和が遠のいた」と世論を誘導し、大統領に圧力をかける。
「日本は極東の一野蛮国。米国人は白人として共通の文化を持つロシアに親近感を持っている」とウイッテは信じている。
ウイッテの回顧録には、世論工作の具体的な方法が書かれている。
「米国における新聞の力は大きいから、記者たちに愛想よく心安く接する」「米国の人気を勝ち取るためにフランクな態度で、尊大ぶらないように注意する」
当時、ニューヨークには、ロシアから追放され亡命した50万人のユダヤ人が住んでいた。新聞もユダヤ人資本の影響下にある。
「ユダヤ人対策もやらないといかんな」。交渉内容以前に、話し合う下地を必死で考える。
「日本人は尊大ではないが、あの秘密主義と陰気な態度が墓穴を掘るに違いない」。ウイッテは的確に分析している。
船がニューヨークの沖合に差し掛かると、数隻の船がウイッテの船に横付けして、記者たちがどっと乗り移ってきた。
アジアの小国が大国ロシアを打ち負かした。さて両全権大使に、交渉への秘策はあるか。講和会議は興味津々のネタなのだ。ウイッテを取り囲んでフラッシュが焚かれる。
ウイッテは笑顔で記者たちを自室に招き入れた。
一方、横浜からシアトル経由でニューヨークに向かう日本の全権・小村寿太郎一行は、記者たちを閉め出し作戦会議を繰り返していた。
「どの要求項目から攻めれば賠償を取れるか」。
ウイッテの周囲とは対照的に、交渉を前にして重苦しい雰囲気が漂っていた。 (この項、次回に続く)