日露戦争終結に向けた講和会議は、1905年(明治38年)8月10日から、米国東海岸の小さな軍港の街、ポーツマスで始まった。
ロシア全権のウイッテは、会議の冒頭、こう切り出した。
「私がこの席で言明することは、すべて全世界に向けて訴えようとするところだ。皇帝陛下から全権を委任されている私には何らの秘密もない。日々の交渉談判の経過を新聞に公表することを希望する」
秘密主義の日本が拒否することを前提にした公開要請だ。果たしてウイッテの予想通り、日本全権の小村寿太郎はこれを拒否する。毎日の協議内容は双方が公開に同意した部分のみ新聞発表文として記者に伝えられた。
中身がないことは目に見えている。その後の交渉過程で、小村が公開要請を蹴ったことを知る記者たちは、「日本側の検閲で記事にならない」と、反感を小村に向けた。そのことが記事になる。日本代表団は新聞を敵に回し国際世論の形成に失敗する。
新聞発表文は連日、「双方は建設的な雰囲気の中で講和条件について真摯に話し合った」と木で鼻を括った無内容に終始したが、翌日の世界の新聞には詳しい経過が掲載された。ウイッテが記者たちに協議内容をロシア視点でリークし、巧みに流れを誘導してゆく。
小村の記者あしらいは対照的だった。
コメントを求められると、「われわれはポーツマスへ新聞に(記事の)種を提供するために来たのではない。談判するために来たのである」と冷たく突き放す。記者たちは激怒した。
当初親日的であった新聞論調は、日を追うごとにロシア寄りに傾いていった。
今日の外交交渉では、プレスを通じた世論対策が重要なかぎを握ることは常識だが、ともすれば日本の外交は現在もこの点が不得手である。交渉経過の秘密を保持し、本国の訓令を待って決着点を探るのに必死だ。
プレス対策が重要なのは外交交渉だけではない。企業のM&A、合併交渉、家族間の経営権をめぐって対立するたびに、どちらが無理難題をふっかけているかについて、メディアは情報量の多い側の肩を持つことになる。
これに気づかないと、思わぬ結果を招くことになる。「なぜだ」と嘆いても後の祭りだ。
さて小村は、講和協議の進行についても、老獪なウイッテの術中にはまり込んでいく。 (この項、次回に続く)