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- 挑戦の決断(16) 天下取りのため正統性を掌握する(曹操)
人民の支持を得るためのまわり道
2世紀の中国、後漢末の混乱で皇帝の権威は地に落ち、都の長安でも帝臣たちは次々と天下取りの覇権争いに名乗りをあげ、動乱の時代に突入していた。のちに魏の国を率いる曹操(そうそう)もその一人であったが、勢力は弱小だった。
だれもが軍事力を背景に帝室をないがしろにしていたが、曹操の発想は違った。なんの権限も持たず存在感が薄れ逃げ惑っていた最後の皇帝、献帝を自ら支配する許の街に迎え入れる。宦官の養子の血筋を引く曹操が人一倍、皇帝に対する忠誠心が強かったわけではない。
混乱の中で〈後漢の時代は終わった〉と強く認識していた曹操も、いずれ天下を統一し後漢に代わる王朝を打ち立てると心に期している。それを押し隠して皇帝を補佐するふりをして、「われこそは漢の権威を再興する」とのふりをする。腐っても鯛である。帝室の権威を利用して〈正統性〉を手に入れ、並み居る群雄たちとの差別化を図っただけのことだ。このあと、曹操と戦うものは〈逆臣〉の汚名を着ることになる。
時代の激動期には権威を手中にすることが意外なほどに効果を発揮する。織田信長が都落していた将軍、足利義昭を奉戴して上洛し、その後の戦乱での正統性を手に入れる。あるいは、幕末の行方を決した鳥羽伏見の戦いで軍備に勝る徳川幕府軍を退けたのも、実質的な政治力もない朝廷を取り込んで突如、戦場に「錦の御旗」が翻ったことによるところが大きい。
戦乱というと、軍備、軍略の優劣ばかりに目が行きがちだが、政治的喧嘩の延長である戦いにおいて、権威に目をつけた曹操はただものではない。発想は信長と似ている。というより歴史書に通じた信長が曹操の故事を真似たのである。まわり道こそ本道を行くより効率的なのだ。
名参謀を得る
この権威利用の決断が曹操の発想かというと違った。謀将(参謀)として曹操に仕えた荀彧(じゅんいく)の建策によるものだった。
後漢の腐敗政治に絶望した荀彧は、はじめ、最も天下に近いとされた袁紹(えんしょう)に仕えていたが、その人となりを「器にあらず」と見抜き、曹操の人物の大きさを噂に聞いて寝返った。そして献帝擁立を立案、実行する。そこから軍事力に劣る曹操の快進撃が始まる。
曹操は、荀彧を得たときに、その冷静な叡智を知り、「(荀彧は)わが子房である」と喜んだ。子房とは、秦末の混乱を平定し前漢王朝を開いた劉邦(りゅうほう)に仕えた参謀の張良(ちょうりょう)のこと。曹操は荀彧を幕下に加えて天下取りを視野に入れた。
時には曹操を叱り、ある時には的確な軍策を授ける彼なしには、三国時代の生き残りと勝利はなかった。
荀彧を得たことは人材獲得面でも大きな効果をもたらした。荀彧には、帝室に仕えた時代の優秀な青年官僚、志士たちの知り合いが多くいた。みな宦官たちによる腐敗政治に反発して野に下っていた。そのネットワークを活かして荀彧のもとに次々と優秀な人材が頼ってきた。この多様で多彩な才能が曹操を支える。最終的に覇権を争うことになる蜀の劉備、呉の孫権と勝敗を決めたのは、この人材の豊富さの差が大きかった。
優秀なリーダーが壮大な志を立てても、一人では天下の大事は成就しない。優秀な知謀・力量と豊かな人的ネットワークを持つ参謀格をいかに得るかで勝負は決まる。
〈志を立てたなら、まず有能な参謀を得よ〉。成功の鉄則である。
人を能力のみで評価する
荀彧に教えられた人材確保の大切さを曹操は独特の方法で発展させる。
〈人を能力においてのみ評価する〉という原則だ。能力、とくに一芸に秀でていれば採用し登用した。家柄も問わない。さらに漢王朝時代に尊重された徳目も無視した。能力さえあれば、身持ちが悪かろうが素行に問題があろうが問題視せず適材適所で使った。これは、絶大な組織掌握力がないと危険ではあろうが。
型破りの人材起用法について曹操自身はこう言う。
「太平の世ならば、徳のある者を尊重するのもいいだろうが、乱世にあっては能力あることこそが評価される」
曹操の破天荒な人事方針は、今が有事・乱世であると冷静に判断してのことだったのである。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『正史三国志1』陳寿著 裴松之注 ちくま学芸文庫
『「三国志」軍師34選』渡邉義浩著 PHP文庫
『読切り三国志』井波律子著 ちくま学芸文庫
『三国志 きらめく群像』高島俊男著 ちくま学芸文庫