中国の南京国民政府軍事委員長の蒋介石は、西安にいた。同地に 駐屯する東北軍閥の張学良が、対共産党討滅作戦命令に従わず動かないことに業を煮やし、張を直接に難詰、督戦するために南京から乗り込んだのだ。
1936年(昭和11年)12月4日のこと。日本軍は、4年前に満州国を建国し、さらに華北に進出している。しかし蒋介石は「抗日」に動かず、毛沢東率いる共産軍との内戦を優先しつつ力を蓄え「国内統一」の主導権を握ろうとしていた。
張学良と同志の楊虎城を呼びつけた蒋介石はテーブルを叩いて激しくなじった。
「抗日より共産党討伐だ。陜西省や山西省の紅軍を撃退せよ、どうしてそれができないのか」
張、楊のふたりは強く反発する。
「国民の願いは日本侵略という国難の打開にある。まずは抗日に全力を挙げるべきではありませんか」
国民政府指導下にある各地の地方軍とはいえ、軍閥の寄せ集めに過ぎない。張学良にすれば、8年前に東北(満州)軍閥を率いた父、張作霖が日本の関東軍の謀略で爆殺され、満州を追われている。日本軍への怨念は深い。
それだけではなかった。現実問題として、西安を拠点に軍の立て直しが急務で、紅軍と戦闘を行う余裕などなかった。
蒋介石による説得は一週間続いたが、意見は平行線をたどった。「蒋介石は日本軍と通じているのではないか」「張学良は共産党の手先か」。相互に不信は募った。
毛沢東の中国共産党も、国民政府軍の激しい攻撃で江西省・瑞金の拠点を終われ、世に言う2年間の「長征」を経て、ようやく西北部の延安に新たな拠点を設けたばかりである。政府軍との戦闘で兵力は激減し勢力も疲弊していた。
国民政府の圧力を抗日戦に振り向けさせたい。実際に、同年4月、張学良は延安に飛び、共産党の周恩来と極秘に会談している。三者三様の複雑な思惑が交錯していた。
交渉が長引くにつれ西安市内では、学生、知識人たちが「蒋介石は日本を恐れる弱腰」と反蒋のデモが巻き起こる。
12月12日未明、ついに張・楊は軍を動かし蒋介石を包囲する。山に逃げ込んだ蒋介石は拘束された。西安事件である。
ここから国際世論も巻き込んだ蒋介石救出の交渉が始まるのである。 (この項、次回に続く)