ロシアに侵攻したナポレオンは、国境のニエーメン河を越えた時点で、「戦いは60日で終わらせる」と計算していた。
ナポレオンはこれまでの欧州征服戦で20万の兵卒を率いたことはあるが、今回は同盟軍を含めてその3倍を越える未経験の大遠征である。
パリからロシア国境まで2000キロをやってきたが、モスクワまではさらに800キロもある。兵站補給線も延びる。可能か?
「ロシアの精神面の支えであるモスクワ、首都のペテルブルグを落とすまでもない。大軍で敵を叩けば早晩、ロシアは瓦解する。遠征は半ばでアレクサンドルも講和を求めてくるに違いない」。楽観していた。
実際にロシア軍の右翼と左翼に割って入った形で電撃的に国境を越えたから、敵を分断できた。あとは敵を追い、容易に左右両軍を個別撃破できるとナポレオンは考えていた。
大軍遠征の成否は、兵站・補給の確保にかかっている。軍事プロのナポレオンだけに抜かりはない。各部隊に20日分の食糧を携行させ、残りはプロイセン、ポーランドの拠点から補給させる計画を立てていた、ポーランドのダンチヒだけで50日分の食糧・物資は備蓄させていた。
しかしロシアに踏み入れるや否や、遠征軍を襲った大音響は敵の砲声ではなく、とめどない雷鳴だった。豪雨に見舞われ、道はぬかるむ。雨が上がると道路は干上がり砂塵が舞って兵を疲弊させる。
そして地勢を知り尽くしたロシア軍は東へ東へと兵を引き、容易に捕捉できない。悪路に加えて各部隊が食糧用に同行させた家畜の群が道を塞ぎ、後続の輸送部隊の前進を妨げた。
輸送を担う牛馬の飼料も不足する。行軍速度が落ちれば、積んだ食糧はあっというまに消費されていく悪循環に陥った。
まず役牛を食糧に回した。馬は温存したが現地の放牧で消化に悪い生麦を食べて次々と倒れていった。
逃亡兵も増えた。敵を追う歴史的大軍は、規律を失ない、飢餓線上をさまよう流浪の集団と化していく。
「それ、兵を鈍らし鋭をくじき、力を尽くし貨をつくすときは、すなわち諸侯その弊に乗じて起こる。〈(遠征が長引けば)軍も疲弊し鋭気もくじかれて、力も財貨も無くなれば、ライバル諸侯たちは困窮につけこんで襲いかかる〉」(『孫子』作戦篇)
ナポレオンの脳裏を、日ごろ愛読していた中国兵法書の警句がよぎり、迫りくる運命におののいたに違いない。
(この項、次回に続く)