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万物流転する世を生き抜く(23) 前線を離脱するロシア皇帝

指導者たる者かくあるべし

 ナポレオン軍のロシアへの電撃侵攻は、1812年6月24日、ポーランドとロシア国境を流れるニエーメン河の渡河で始まった。
 
 ナポレオンが欧州各地から動員した兵力は67万5000と記録されている。対するにロシアが動員できたのは21万8000。兵力差は3倍だった。
 
 さらに、守る側は敵がどこから攻め入るかわからない。三軍に分けて400キロの前線に配置せざるを得ず、ナポレオン軍は抵抗もなく攻め入る。宣戦布告もなかったから、ロシア軍は大混乱に陥った。
 
 皇帝アレクサンドルがナポレオン軍の電撃的な侵攻を知ったのは、モスクワではなく、前線近くの町、ヴィルナに置かれた本営そばで行われていた舞踏会の最中だった。慌てて本営に戻るが手の打ちようがない。
 
 総司令官でもある35歳の若き皇帝はナポレオンへの対抗心から前線で指揮を執ろうとする。しかし皇帝がいたのでは、作戦会議もおべっかが飛び交うだけの自由な意見の出ない接見の場となってしまう。しかも万が一、皇帝が敵に捕捉されれば、その場で敗戦だ。
 
 危機管理の正念場で、最前線に突っ込みたくなる、ワンマン経営者が陥りがちな、“誤った陣頭指揮”の典型だ。
 
 将軍たちは、皇帝に首都へ下がってもらいたいが、言い出すものはいない。
 
 「私が言おう」。警視総監のバラショフが、意を決して、引き受け手のない役回りを志願した。「陛下、軍は将軍たちにお任せ下さい。陛下は首都で国家全体を指揮する義務があるのではありませんか」
 
 聡明な皇帝は、バラショフの丁重な言葉遣いの真意を汲み取った。
 
 「わかった、モスクワに戻ろう」
 皇帝はモスクワを経て当時の首都ペテルブルグに引き揚げた。
 
 諌言は聞く耳があってこそ生きる。
 
 皇帝は、前線の厩舎に第1軍のバルクライ将軍を訪ね、指揮権を委譲し、抱きしめて言った。
 
 「わが軍をよろしく頼む」。そして付け加えた。
 
 「これは余のかけがえのない軍隊であることを忘れないでくれ」
 
 将軍もまた、皇帝の言葉にこめられた真意を把握した。
 
 「退却は恥ではない。私に託されたのは、軍を無傷で保つことだ」
 
 ナポレオン連合軍が進む。ロシア軍は会戦を避け、じりじりと後退する。
 
 戦闘らしい戦闘もないままに進撃するナポレオン軍であったが、敵より恐ろしい苦難に直面していた。
 
 兵站という敵であった。(この項、次回に続く)
 
 ※参考文献
 
『ナポレオン上・下』エミール・ルートヴィヒ著 北澤真木訳 講談社学術文庫
『ナポレオン自伝』アンドレ・マルロー編 小宮正弘訳 朝日新聞社
『ナポレオン一八一二年』ナイジェル・ニコルソン著 白須英子訳 中公文庫
『ナポレオン―ロシア大遠征軍潰走の記』アルマン・オーギュスタン・コレンクール著
                    小宮正弘訳 時事通信社
 
 
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  著者/宇惠一郎 ueichi@nifty.com 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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