【意味】
礼義の効用は、お互いの和やかさを醸し出すことである。
【解説】
まずは、礼儀の基本、挨拶について考えてみます。
人は時と場所に応じて立場が変わります。
父と子、上司と部下、先生と生徒など、場面によって様々です。
それぞれが、その立場に応じたお互いの敬意や親愛の情を、挨拶を通して態度に表すのが人間本来の姿です。
しかし、現代の人間関係はどうでしょう。本来は動物社会でも、敵意や攻撃の意思がないことを表わす挨拶行動が見られるわけですが、最近では親子平等意識から家庭において挨拶教育が軽視され、事の他挨拶に無頓着な人が多くなりました。
昔の親は、挨拶の三原則として、
(1)笑顔を添えた大声で、
(2)相手よりも先に挨拶をし、
(3)相手が気付くまで何回も
と、我が子に教えたものです。
我が子が生きていくために、敵を作らず誤解をされないための必須の習得マナーだと考えられていたのです。
またそればかりか、数秒間の挨拶1つで、その人物の人間的力量までも測られることを理解していたのでしょう。
たかが挨拶ですが、日常的な行動の根幹をなすものですから、人間品性の判断要素となりうるのです。
「挨拶の三原則」は一度身につけたら習慣になります。
一旦身に尽きますと、無意識レベルの高い挨拶ができて、大きな財産となっていくのです。
また礼とは、活かされている自分を謙虚に感謝して、その感謝の心を態度で表現するものです。簡単にいえば有り難いと思う気持ちを込めてお辞儀をすることです。
改めて、何に対して有り難いと思うのかを自問してみると、色々な有り難さに気付かされます。お世話になった方々から頂いた人的な愛、活かされている大自然の恵みなど。
この場合一般的に浮かぶのは「外への感謝」ですが、一方で普段忘れがちになっているのが、「内への感謝」です。
特に肉体に対しては、機能していて当然のような錯覚に陥っていますが、眠っていても鼓動を続けてくれている心臓、多くの音を聞き分けてくれている耳、周りの状況を映し出してくれている眼など。この当たり前のように、無償の奉仕をしてくれる自らの肉体に感謝することこそが、心から肉体に対する仁の実践に繋がるのです。
そうすれば、普段酷使されている肉体も和やかになり、病に堕ちることも無くなることでしょう。