対等な国際関係を求めて
明治時代45年間の最大の外交課題は、幕末に欧米列強との間で結ばれたいわゆる安政五条約の不平等条項の改正問題だった。不平等条項の主なものは、輸入産品に課せられる関税率の決定が相手国の同意が必要で、日本独自の判断が失われていたことであり、いま一つは、横浜、長崎などの外国人居留地での外国人犯罪の裁判権が日本に無かったことだった。
安政条約を結んだ幕府の責任追及をきっかけに始まった倒幕運動の延長線上で成立した明治政府だったが、当初は不平等条項への理解は乏しかった。安政条約の問題点は、幕府が天皇の勅許なしに勝手に条約を締結した点にあって、いわば名分の問題だ。新政府が動き出すと、まず関税問題が現実的な課題として突きつけられることになる。
日本への輸入品の税率は一律5%と定められた。これによって安価な繊維製品が国内に流入し、国内産業は大打撃を受けた。さらに歳入が乏しかった政府の財政は関税への依存率が高かったが、低い関税率では財政は潤わない。明治初期の各国の歳入に対する関税の寄与率は、米国53%、ドイツ55%、自由貿易の盟主を自認する英国でさえ22%であるのに、日本はわずか3%にすぎなかった。日本は、各国の商品市場として蹂躙された。
鹿鳴館運動のとんちんかん
明治政府は、関税率の11%への引き上げの交渉を展開するが、こんなおいしい市場での利権を手放す国はない。新政府は、欧米各国の日本への差別待遇は、日本に対する後進国蔑視が背景にあると見て、欧米文化の受け入れ姿勢を醸成する必要があるとして、的外れの取り組みに精を出す。明治16年(1883年)、外務卿だった井上馨(いのうえ・かおる)は、都内麹町に社交場としての豪華な洋風建築「鹿鳴館」を建て、夜な夜な、洋装でのダンスパーティを開き、諸国の外交官らを接待した。ローマ字普及運動にも力を入れ、キリスト教の国内での普及なども検討されたという。
これで各国が、「うん、日本も欧米並みになってきた。条約を改正して仲間に入れてやろう」となるはずがないことは自明である。条約改正の交渉は堂々巡りで、かえって早期の国会開設を求める自由民権運動家のナショナリズムを刺激し、一部で暴動まで起きる事態を招く。
政府の勘違いは、もう一つの焦点だった治外法権問題でも生じる。条約締結国は居留地での犯罪について、法官でもない領事に裁判権を委ねている。その理由は、刑事訴訟法も整備されていない日本の司法制度は信用に足りないというものだった。「それなら、日本の裁判所に外国人裁判官を採用して運用すればいい」と具体的に動き出した。これには、政府のフランス人法律顧問、ギュスターブ・ボアソナードさえ、「そんなことをすれば、日本の法権独立を毀損し、従来、外国人居留地に限られていた不利益をむしろ全国に及ぼすものだ」と批判し、撤回を求めるほどだった。
相手にすり寄るより情勢を動かす知恵を
外交とは、商談と同じだ。取引先に擦り寄っても、損してまで契約を結ぶ相手はいない。相手の要求の本質を見抜き、要求を満たした上で、こちらにも利得のある落とし所をいかに見出すかにかかっている。交渉相手が複数なら、足並みの乱れを見逃さず、妥協の兆しが見えた相手に絞り込んで押し込む。
転機は訪れる。「ロシアがシベリア鉄道の計画を進めており、英国は戦略的に日本との関係改善を模索している」との情報がロンドンの日本領事館から入る。不平等条項の撤廃に最も強硬に抵抗していた英国である。アジアでの利権確保の主導権を確保するためには、英国の手が届かない内陸部を通過するシベリア鉄道は脅威だ。英国は日本を極東の盟友として待遇を変えるはずだ。
明治22年、大日本帝国憲法を起草し終えたばかりの金子堅太郎(かねこ・けんたろう)は、欧州歴訪の途次、母校の英国オックスフォード大学教授、トーマス・ホランドから重要な提案を受けた。
「日本の憲法は、立憲君主国のものとして世界に誇れるものだ。日本が法治国家として体制を整えていることを、英国議会と協力して世界へアピールすべきだ」
金子は動く。英国の後押しで、日本の司法制度の先進国化への理解がすすむ。条約改正交渉はまず英国から始まる。
こうして、明治27年に治外法権条項が撤廃された。関税自主権が回復されたのは、明治44年(1911年)のことだった。
明くる年からは、もはや大正に入る。明治時代をかけて、日本はようやく名実ともに「独立国家」となった。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
(参考資料)
『日本の近代2』坂本多加雄著 中公文庫
『日本の歴史 22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男著 中公文庫