ペロポネソス戦争の勃発
古代ギリシャのアテネとスパルタ、対極にある体制を持つ二つのポリス国家は、いずれ衝突する運命にあった。
紀元前(B.C)5世紀半ば、賢明な政治家であり将軍でもあったペリクレスの指導下にあったアテネは、アッティカ地方の諸ポリス国家によるデロス同盟の盟主として、圧倒的な海軍力を背景にエーゲ海の交易も支配するに至る。
同盟各都市からの貢納金によって富を蓄積したアテネは、その影響力をさらに西方にあるペロポネソス半島都市群の支配を目指すようになる。アテネ帝国主義の出現だ。
アテネは、貴族政統治下にあった西方の諸都市に民主政を押し付け、各都市で党派闘争を引き起こす。各都市の党争は、アテネとスパルタにそれぞれ支援を頼み、両都市の代理戦争の様相を帯びる。まるで、20世紀の冷戦下での東西体制競争だ。影響圏をアテネと棲み分けていたスパルタも、自分たちの裏庭であるペロポネソス半島にアテネが土足で踏み込むことには我慢がならなくなる。
B.C431年5月、スパルタ王アルキダモス率いるペロポネソス同盟の大軍が、両地域を隔てるコリントス地峡を渡ってアテネ郊外になだれ込む。ギリシャのポリス世界を二分して27年にわたり争われるペロポネソス戦争の勃発である。
ペリクレスの死
ペリクレスは郊外に暮らす農民たちを城壁内に避難させて籠城戦に出る。郊外の農地を荒らしまわるスパルタ軍は、豊かなオリーブ、ブドウ、小麦畑を焼き払って引きあげた。精強な重装歩兵で攻めかかるスパルタに対して、ペリクレスは圧倒的な海軍力を駆使して、スパルタ軍の背後を突き、戦況は一進一退を続けたが、そこに思わぬ敵が出現する。
アテネの交易先の東方世界から持ち込まれた疫病が、避難民でごった返すアテネ市中で蔓延する。避難民が暮らす掘立て小屋が立ち並び30万人がひしめき合うアテネ市内は、死者が放置される生き地獄となった。
疫病は、腸チフスだともエボラ出血熱だとも推定されているが、治療にあたる医師も看護する人々も謎の高熱でばたばたと倒れていく、それが2年にわたり何波も攻めかかった。近年の新型コロナの流行を想像すればいい。
アテネの軍事動員力は、謎の疫病流行前の半分以下に激減した。市民を激励し、前線で戦いの指揮をとるペリクレスも、開戦2年後に疫病に感染し死亡した。それでも全市民参加による民会主導による市政指導は維持されたが、強烈な指導者が消えたアテネ民主政は迷走を始める。戦況も次第に悪化する。
民主政と煽動者
ペリクレスの死後、アテネで起きたのは民主政の変質というか劣化だった。
戦況悪化に伴い、民会でも和平を望む声が出はじめたが、それをかき消したのは、民会で声高に主戦論を説くデマゴーグ(煽動者)たちだった。爽やかな演説で、拳を振り上げ着物の裾をたくし上げて「今こそ戦う時だ」との勇ましい弁論パフォーマンスに民衆は酔った。そして不利な戦いは泥沼に陥っていく。
一旦はスパルタとの間で和平が成立したが、容姿端麗なアルキピアデスは巧みな演説で、食糧調達とアテネの威信回復のために、さらに西方のシチリアの征服と和平破棄を民会で打ち上げ、なけなしの海軍を率いて遠征し敗北、やがてスパルタの軍門に降った。アテネは軍備と領土を制限され、スパルタの指導下に入ることを余儀なくされた。
かろうじて独立を維持できたのは、「かつてのペルシャとの戦いでのアテネの貢献に免じて」という、スパルタの温情によるものだった。
主権在民原則による平等な国民総参加のデモクラシーは、今でも最上の政治体制であることに疑いの余地はない。
しかし、いかにデモクラシーが確立されていても、民衆は巧みで勇ましい弁論に引きずられて判断を誤りがちだ。戦時ではなおさらだ。ナチスドイツも、民主主義の体制から国民の支持を受けて成立した。あるいは、膨張主義から焼け野原の敗戦に至るわが国の20世紀前半も、議会政治の中での民衆の判断の帰結であったことを思い出す必要がある。
最近の政治の動きを見ても、虚実をないまぜにしたSNS(ソーシャルネットワーク)を駆使した「大きな声」に人々は判断を引きずられがちに見える。
敗戦で死に絶えたかに思われたアテネの民主政はというと、その後、奇跡の復活を遂げるのである。(この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
(参考資料)
『スパルタとアテネ』太田秀通著 岩波新書
『古代ギリシャの民主政』橋場弦著 岩波新書
『戦史』トゥキュディデス著 久保正彰訳 中央クラシックス