ソ連共産党書記長のゴルバチョフを迎えて開かれた東独建国40周年の記念式典には、ソ連指導下にあった東欧各国の指導者が大挙して出席した。
しかし、東独と国境を接するハンガリー指導部からの代表団の姿はない。ベルリンで式典が開催された1989年10月7日、ハンガリーの首都ブダペストでは、国家を主導する共産党(社会主義労働者党)が国の進路を決める党大会を開催していたのだ。
東欧の指導者たちに「改革」「民主化」を迫るゴルバチョフの主張には矛盾があった。「改革を本気で推進するなら、共産党の一党独裁を打破する必要がある。党と国家を分離しないとできない」と、ハンガリー首相ネーメトは、その矛盾を見抜いていた。しかし、ゴルバチョフにはそこまでの考えはない。一党独裁下での改革を要請していた。「問題はタイミングだ」とネーメトは党内改革派に支えられて首相に就いて以来、慎重に反逆の機会を探っていた。
ハンガリーは、人口1000万人に満たない小国だが、西側のオーストリアと国境を接した東西冷戦の最前線にある。冷戦初期の1956年10月に民主化を求めて大衆が蜂起した「ハンガリー動乱」は、ソ連軍の介入で蹂躙される苦い経験を持つ。1968年にはチェコスロバキアの民主化運動もソ連軍戦車の突入で踏み潰されている。
「われわれが一党独裁を否定すればゴルバチョフはどう出るか」。ハンガリー指導部は、モスクワの反応を探ることにした。
ハンガリー政府が取った行動は実に大胆なものだった。1989年5月2日、西隣りのオーストリアとの国境に設置された電流の通じるフェンスを「今後、維持しないことにした」と発表する。あくまで「財政上の都合」として政治色を消しながらだ。
そして、内外の報道陣の前で国境警備装置のスイッチを切って見せる。ハンガリー兵士たちがフェンスに殺到して、鉄条網を次々とカッターで切断、大きな束に丸めて捨てはじめた。ベルリンの壁が崩壊する半年前のこと。東西ヨーロッパを分断してきた“鉄のカーテン”に穴が開いた歴史的瞬間である。
モスクワが黙っているかどうかのテストだった。「ゴルバチョフは動かない」。ネーメトには自信があった。(次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
参考文献
『ゴルバチョフが語る冷戦終結の真実と21世紀の危機』山内聡彦・NHK取材班著 NHK出版新書
『1989世界を変えた年』マイケル・マイヤー著 早良哲夫訳 作品社
『1989年 現代史最大の転換点を検証する』竹内修司著 平凡社新書
『東欧革命—権力の内側で何が起きたか』三浦元博、山崎博康著 岩波新書