【意味】
何を基準に明君と暗君の違いとするのか。
【解説】
この言葉は「貞観政要」からのものですが、唐の2代目皇帝:太宗が諫義太夫:魏徴(カンギタユウ:ギチョウ)に問いかけたものです。諫義太夫とは、帝の過失を諌めるために、漢の時代(前漢BC206~)から元の時代(~AD1279)まで置かれた官職です。
魏徴は、太宗の質問に対して「君の明らかなる所以の者は、兼聴すればなり。その暗き所以の者は、偏信すればなり」と答えます。兼聴とは多くの臣下の意見に耳を傾けることであり、偏信とは偏った臣下の意見、つまり気に入った取り巻きの臣下の言だけを信用してしまうことです。
「人の真偽は、文筆口述の中に現われる」(巌海)といいますが、心広く多くの発言を聞くだけでなく、発言の後ろに潜んでいる人品の程度を見抜かなくてはなりません。しばしば耳にすることですが、保証人として全財産を失った人が「迷惑をかけないからと言われたから・・・」と嘆きますが、相手の人品を見抜けなかったことに起因する不幸です。
ここで、第52講にも出てきました太宗と魏徴の関係を少し・・・
唐王朝の初代皇帝が李淵(リエン、廟号:高祖)、二代目が太宗ですが、当初は長男李建成が2代目になるはずでした。ところが前隋政権の群雄平定の際に活躍をした次男李世民の人気は高く、父高祖もこれを無視するわけにはいかず、世民に"天策上将"という称号と新宮殿を与えて功績を称えます。
これを見た長男建成は、自らの将来を憂い、弟の三男元吉や自派の参謀:魏徴らと謀って世民の暗殺を画策します。手始めに世民の参謀:房玄齢を讒言(嘘の密告)で遠ざけさせますが、事の真相を掴んだ世民は房玄齢を呼び戻し「玄武門の変」を起こし反撃します。
この事変により建成や元吉らを殺害した世民は、父高祖から強引に帝位を譲り受け、2代目太宗として即位します。太宗は、暗殺計画の参謀:魏徴を処罰しようとしますが、堂々としている魏徴の態度に感服し、逆に命を助け自分の諫義太夫として召抱えます。
一般的に多くの歴史学者が、後の太宗が成し遂げた『貞観の治世』の成功要因に、主君を支えた名臣:房玄齢・杜如晦・魏徴などの存在を挙げます。しかしもう少し深い味方をすれば、太宗自身も既に血気盛んな青年武将の時から、我が命を狙った魏徴の言にまでも耳を傾ける「明君としての素養」を備えていたということになります。
また魏徴もなかなかの人物です。この太宗との問答は王朝発足後の貞観2年とありますから、命を助けてもらった間もない時期です。にもかかわらず臆することなく、暗に「陛下も偏信して暗君の道を歩まぬようにと・・」と一歩高いところから諭している威厳を感じられます。
「若い明君の元に名臣が集まり、誉れ高い歴史上の名君が生まれる」(巌海)