【意味】
君子である度量の大きな人は広く公平に交わり、特定の仲間に偏しない。君子でない狭量の小人は特定の仲間と交わるだけで、広くは交わらない。
【解説】
「君子と小人」は、人間学では重要なテーマです。明確な定義はありませんが、一般的に「君子は度量ある立派な人」であり、「小人は狭量のコセコセする人」となります。様々な角度から「君子・小人」に関する名言が残されていますので、以下に紹介します。
「君子は泰かにして驕らず。小人は驕りて泰かならず」(論語)
《意》君子は泰然自若(慌てずどっしり落ち着いている様)で高慢ではない。逆に小人は虚勢を張りたがり穏やかではない。
《解》最近の弱肉強食の企業社会では、首脳陣の品性よりも企業業績が優先されがちですが、組織運営の本来のあり方から見れば、あくまでも「組織は人に在り」となります。
経営指導の経験からすれば、企業は一時的に経営環境が好転し利益に恵まれる時があります。すると苦労人社長も緩みが生じ、社長車を高級車に変えます。儲かっている間は高級車でも構いませんが、業績が下降した場合には分相応の節約が必要です。しかし業績悪化を同業者に知られないために、虚勢を張る贅沢経営を続ける傾向があります。このような行動が掲句の「小人は驕りて泰かならず」と云うことになります。
「君子は義に諭り、小人は理に諭る」(論語)
《意》君子の経営姿勢は道義を優先するが、小人の経営姿勢は目先の損得を優先する。
《解》かつてサラ金と云われた高利金融企業が、困窮者の弱みに付け込んで高利融資をして暴利を貪り、大きな社会的な問題になりました。この種の企業は世の中から消えたと思っていましたが、最近は大手銀行傘下の金融会社であることを謳い文句に復活しつつあります。
そもそも「企業とは、社会に役立つ企画を業とし、その企画を繰り返し行う組織」です。それ故に今までの多くの先人企業経営者は、君子たる振る舞いで社会貢献を心掛け、小人たる振る舞いを自重して、その上で堂々とした経営姿勢で業績を維持してきました。
だからこそ各企業も、現代社会を構成する中心組織として認められ、その経営首脳陣も一定の社会的な尊敬を受けてきました。資本主義社会の中心となる大銀行であるからには、如何にゼロ金利時代で苦しいと云っても「経営姿勢の道義」を守り抜かなくてはいけません。
「君子重からざれば、即ち威あらず」(論語)
「君子は必ず其の一人を慎むなり」(大学)
《意》前句:君子として重々しさが無ければ、威厳が無い。後句:君子は我が立場を理解し慎み深くすると共に、自己の器量拡大に繋がる鍛錬修行を疎かにしてはならない。
《解》武蔵の言葉に「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」とありますが、修行とは無心になって鍛錬を繰り返すことです。千日の坐禅行、100万歩の散歩修行、1万段階段登行修行、1万個ゴミ拾い修行などが考えられます。修行鍛錬を意識して毎日行い、3~5年の長期で取り組むことです。そして数カ月単位の節目ごとに自分の成長度合いを記録して比較してみてください。自分の成長過程が確認でき「修行継続の自信」が生まれます。