【意味】
上司として下級の臣下に接するときでも、礼儀を持って対応する。
【解説】
「宋名臣言行録」からの言葉です。
千年前の官吏への戒めですが、礼儀が希薄になって千年後の現代社会では、驚くような無礼な対応をする官吏や企業人が多いのは残念です。
ある下請け企業の老社長が永年の経験から、「下請けをいじめる親会社は伸びず、威張り散らす担当者はやり手であっても不思議と出世しない」と述懐していました。
礼儀とは、一般的には相手に対して敬いや感謝の表現としての礼が基本になります。しかし意識して人間以外にも感謝する習慣を持てるようになりますと、礼の範囲が広くなります。例えば、降り注ぐ太陽の光に感謝し、路傍の花に心中でそっと手を合わせるなど・・・生活の中で感謝の習慣が身に付きますと、感謝の回数が増えて心も明るくなります。
このように自然相手の礼ができるようになれば、特別な事情のない限りは人間相手の礼儀もしっかりとできるはずです。
これとは逆に、礼儀の対象範囲をお世話になった人々や身近な人々に限定しますと、自然に礼の範囲が狭くなり、しばしば礼儀を欠く状況が生まれかねません。この場合、相手が格上の余裕がある立場の場合には「礼儀知らずな奴」という軽蔑を受ける程度で済みますが、相手が格下の余裕のない立場の場合には、時には「屈辱を与えた奴」という捉え方になり、こちらが気付かないうちに恨まれることも生じます。
「感謝は十日で忘れ、恨みは千日も忘れず」(俗諺)と言われますから、挨拶程度のことで部下に恨まれるような振る舞いをしている人物では、更に上の地位にはなれないということになります。これが掲句の教えです。
最近若い経営者への講演の機会も増え、後を継ぐ2代目の方から質問されるのが、先代から仕えてきた年上の老社員への対処法です。
老社員も時代の流れにより社長交代を頭では理解していても、心の隅では「2代目の若造に・・・」と頑なな気持ちが何処かに潜んでいます。2代目社長の方も気心の知れた同世代社員の登用をしたい気持ちが強いことから、老社員としては先代社長を支えてきた栄光を汚されることとなりますから穏やかでありません。
基本的には2代目社長の取るべき妙案はありません。やりにくさが伴いますが、社長として迎合することなく毅然と対応すれば、年齢や経験に関係なく部下は付いてくるものです。
それも何か対策をとなれば、「二代目の早朝トイレ掃除」を薦めています。トイレ掃除は社内業務というよりは社内修行ですから、老社員も「2代目も自ら進んで基本から始めているな・・」と評価してくれるはずです。
「動中の禅は、坐中の禅の3倍の効あり」といわれますが、トイレ掃除こそ格好の動中禅です。可能な限りブラシ等の道具は使わずに、雑巾片手に3年くらい修行すれば、老社員ばかりか全社員から「トイレ掃除のできる骨のある社長」として人望が集まります。