ガンジー思想との出会い
一牧師として予期せぬ形で黒人公民権運動の先頭に立つことになったマルティン・ルーサー・キングだが、彼が非暴力抵抗運動を組織することになるには、インド独立の闘士、マハトマ・ガンジーの思想との出会いがあった。
南部アトランタで過ごした幼少期以来、身の回りにはいわれのない黒人差別が日常的に存在した。十代でキリスト者、牧師として生涯を捧げる決心をしたキングだが、神学を学べば学ぶほど大きな矛盾を抱えることになる。教会、神学では絶対平等な「神の国」の実現を説くが、なぜ地上には差別がまかり通るのか。キリストの教えに忠実に生きることを説く福音主義の神学では、行動原理として「絶対平和主義=非暴力」を説く。これは神学解釈では「無抵抗」をも意味した。果たしてそうなのか。
確かに、当時の南部では、あまりの差別に黒人が暴動で対処することはあったが、暴力はより大きな暴力、すなわち、軍、警察による発砲を含む弾圧を呼び込み、大虐殺事態に繋がりかねない。だが、無抵抗のままでは、白人社会は「黒人もそれを認めている」と受け取り、差別の構図は改まらない。非暴力=無抵抗ではないのではないか。
1950年春、北部ペンシルベニア州の神学校で学んでいたキングは、ガンジーのインド独立運動に関する講演を聴く。キング21歳。英国政府を動かしたのは、非暴力でありながら強い抵抗運動を指導したガンジーの精神だった。感銘したキングはガンジー思想の学習に没頭する。確信を得た。その確信が、南部アラバマでのバスボイコット運動の先頭に立つことに繋がっている。
バーミンガムでの抗議デモ
バスボイコット運動以降、各地での黒人による人権確立闘争を経て、黒人組織も充実してきた。そして1963年、一大闘争がアラバマ州バーミンガムで持ち上がる。同年1月、アラバマ州知事に人種差別主義者のジョージ・ウォレスが就任した。ウォレスは、就任式で「今も、未来も、永遠に人種隔離を」と叫んで黒人社会を挑発した。ちょうど100年前の1863年、第16代大統領のエイブラハム・リンカーンによる奴隷解放宣言が出されているが黒人の人権状況はそれから1世紀、何も変わっていなかった。
バーミンガムは人口の4割を黒人が占める商工業都市だ。キングは、この都市をあえて選び。4月3日、ダウンタウンの白人経営商店街での不買運動と座り込み、抗議デモを計画した。「抵抗」への抵抗感からか、大人たちは参加を躊躇し、数十人で始まった座り込みは不発に終わったかに思われた。そして、1か月。デモの隊列に高校生、子どもたちが加わり始めた。キングは、親の承諾を得させ子どもたちにも非暴力を徹底させた。口々に「自由を」と叫び歌いながら、隊列は膨らんでいく。夜になると、参加者は2千人を超える。
非暴力は敵の暴力を浮き彫りにする
抗議運動を抑え込んだと考えていた白人による行政組織「三人委員会」は、あわてて、なりふり構わぬ武力鎮圧を指示する。非暴力を貫きその場に座り込み倒れる子どもたちに容赦無く振り下ろされる警官隊の警棒。雨あられと催涙弾が降り注ぐ。その一部始終がテレビ画面を通じて全国に流れる。新聞もこの場面を一斉に報じて、国内外から市への批判が殺到した。
テレビニュースを見た大統領のジョン・F・ケネディは「吐き気がする」と怒り、司法省の役人を仲裁のため旧派した。暴力に暴力で対応したのではこうはならない。非暴力は相手の暴力を浮き彫りにする。バーミンガム事態は、一方的な暴力映像の背後に、未だ根強い差別と偏見の存在を米国民に認識させることになった。
事後、司法省は、市政運営のための人種の壁を乗り込えた委員会を設置し、商店での人種隔離政策を廃止し、黒人従業員の雇用を義務付けることになる。
騒動ではキングを含む2500人以上が逮捕された。キングは獄中から支援者とメディアに向けた手紙を書いた。
「(人種差別が黙認されているという)事態の進展のための、建設的な非暴力的緊張というものがあるのです。私たちは痛ましい経験を通して、自由は決して抑圧者から自発的に与えられるものではないことを知っています。それは、被抑圧者が要求しなければならないものなのです」(この項、次回へ続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『黒人差別とアメリカ公民権運動』ジェームス・M・バーダマン著 水谷八也訳 集英社新書
『マーティン・ルーサー・キング 非暴力の闘士』黒崎真著 岩波新書




















